Plumage Legend 〜二重の神話〜 第五章・起動
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 ――どうして、そんなに意地になるの?
問いかけられた言葉に、どきりとした。
 ――あなたは、あの人が他の人と違うということを知っている。あの人は何者にも変えられない特別な人。あなただってもう受け入れているのに、どうして拒絶するの?
 ケレスにだって、それくらい分かっている。
父や弟や母、そういった血のつながり、友達にある心のつながり、そのどれとも違う、もっと深いところで結びついた、特別な人。
あの瞳を持つ彼はソウルで、だから彼は、他の誰とも違う特別な存在。それは理由など必要としない、確かな事実。
 けれど、素直になれないのだ。
今更、とも言えるかもしれない。
ずっと、曖昧な関係で、それを当然のように思っていた。はっきりさせなくても、彼は彼であって、他の何者にもならず、また、どこにも行かないと。
そんな風に思っていた。
だから、明確な約束なんて必要ない。
少し考えれば、それが身勝手な推測だと分かる。
だが、それでも。
今まで保ってきた、中途半端で、けれど決してこれ以上離れることのない安定した関係を捨ててまで、一歩踏み込むことは出来なかった。
それで全てを失うのは、とても怖い。
彼を求める心は強く深く、拒絶されたときのことなど、考えるのも苦痛だったから。
 ――あなたは、とても強い人。同時に、とても臆病な人。けれど、今は踏み出さなければならないとき。機会を逃せば、生涯言えなくなる。それでもいい?
そんなわけがない。
今の関係は心地いいけれど、ケレスは知っている。
いずれ、それだけでは物足りなくなると。
必ず求めてしまう。もっと近くにいられる位置を。そんな関係を。
 ――大丈夫。彼は必ず受け止めてくれる。私と……いいえ、あなたと彼は、共にあるべきなのだから。さだめではなく、ただひたすらに、心が彼を求めて。さぁ、勇気を出して?
そこまで言われれば、もう抵抗する気はなくなっていた。
たとえ受け入れられなかったとしても、いずれは通る道なのだ。
大丈夫。そう、他ならぬ彼女が言うのだから。

 ケレスは、そっと瞼を押し開いた。
目が光に慣れるまで、数度瞬きを繰り返す。
ゆっくりと身体を起こしても、もう、頭痛はしなかった。肩にかかる髪はぱさぱさと気味の悪い手触り。
「お風呂に、入りたいわ」
思わず、そう呟いてしまう。
呟いた声音はやや割れて、喉の渇きを訴える。ケレスは水差しを探して目を泳がせた。
と、陽光を柔らかくするために下ろされたのだろう天蓋にかかるレースの向こう、ケレスの右手側に、ソウルがいた。
喉元まで悲鳴がせり上がってきたが、それをすんでのところで押し留める。
椅子に腰掛けて、目を閉じて。逆光ではっきりしないが、眠っているように見えたから。
「……ソウル、寝てる?」
問いかけても、答えは返ってこない。
もしかして、寝顔をずっと見られていたのだろうか。いや、レース越しなのだから、それほどはっきりしたものではなかったはずだが、それでも、見られていたのは事実だ。少し恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「えーっと、ソウルじゃなくって、私が欲しいのは」
水、と続けようとして、けれど、ふと口を噤む。
眠りに落ちていた間の記憶が、はっきりと残っている。
それは夢ではなく、確かに存在したわずかな邂逅。内側に息づく存在とのささやかな接触。
「私が、欲しいのは」
言葉にするには、酷く気恥ずかしいそれを脳裏に思い描き、それを聞いたときの彼の反応まで想像して。
「……言ってもいいのかしら」
思わず生じた迷いに、小さく笑った。
 さて、と、気持ちを切り替えるためにもひとつ息を吐き出して、ケレスは当初の目的の水差しを探すことにする。
サイドボードの一輪挿しにはどこから切ってきたのか百合が活けてあり、鮮やかな橙色のおしべと白い花弁の対比が目を楽しませてくれた。その向こう側に、猫足の丸テーブルと椅子。さらにその上に、探していた水差しとカットグラスが乗っている。
傍らで眠っているソウルを起こさないよう、そっと上掛けをめくり、慎重にベッドから降りた。ワックスのかかったフローリングの床は、裸足のケレスの足音を小さな軋みとして発する。これくらいなら大丈夫だろう。ほっと息をついて一歩を踏み出し、
「……ケレス?」
「ひゃ!!」
予想もしなかった突然の声に、ケレスは身を竦ませた。
「目……覚めたのか。と、言うか、こら、勝手に動き回るな。調子、悪いんだろう?」
そろそろと振り返れば、そこには、目を細めて、こちらを真っ直ぐに見据えてくるソウルが。すでに椅子から立ち上がって、ケレスに向かって歩き出している。
「え、と、いや、その、喉渇いて。だから、ちょっとそこまで……」
「なら、俺を呼べ。何のためにここにいると思ってるんだ」
「だって、寝てたから。疲れてるのかなと」
思って、と、そう言い終わる前にソウルの手が伸びてきた。掬い上げられるまでにかかった時間は、息を吐き出したわずか数瞬。
「え? あ、あの? これは、一体」
繊細なガラス細工を扱うような手つきで、そっとベッドに降ろされる。
数歩の距離だ、言われればすぐに引き返せるというのに、ソウルは何を思って、このように……気軽に抱き上げたり、するのだろう。
「……不思議か?」
「え?」
ふんわりとかぶせられた上掛けの端を握り締めていたケレスに、吐息のような声が降ってくる。思わず顔を上げて、その表情を確かめようとして。
「嫌、か?」
優しく頬を包む手の平は、ほんの少し硬く、暖かい。
形を確かめられるように、片側の手の平が、指が頬や唇、耳朶をくすぐって、前髪をそっと払う。
「……嫌じゃないわ。不思議、なのよ、きっと」
伏せ気味にしていた視線を、思い切って上げる。そこにあるのは、胸が痛くなるほどの憧憬を秘めた、深い深い、蒼の瞳。
見つめ返す、ただそれだけの行為で、呼吸さえ困難になるほどの、己に息衝く強い想いを自覚させられる。
「ねぇ、ソウル」
囁いて、彼の返事を待つ。
「何だ」
「私に、切り捨てる勇気を頂戴? 私は……ソウルの傍にいても、いいのかしら?」
問いかけて、その言葉が持つ意味に赤面する。
けれど、今言ってしまわなければ、この先ずっと言えずに終わってしまうのならば。
今、この不安な時間を過ごすほうが、ずっとましだ。
 しばし時間がかかるだろうと思っていた返事は、思いがけず、すぐにあった。
「何、言ってるんだ、いきなり」
普段ならばほとんど感情の色など見えないのに。普段通りの声音であれば、傷つけられただろう言葉なのに。
そこにわずかであっても宿る感情は、こちらへの呆れ、と取れた。
「ケレスは俺に、ケレス以外の誰を傍に置けと? あぁ、待て、誰かの名前を挙げられても納得しないからやめてくれ。もし、ケレスが何かを切り捨てたいと言うのなら、俺は喜んでその理由となろう。いや……俺が切り捨てるための凶器になってもいいくらいだ。そんなことを、わざわざ俺に問うのか?」
彼にしては、意外なほどの饒舌ぶり。
淀みなく紡がれた言葉の端々に、溢れる感情は暖かい。
「ケレス。俺は、ケレスが望むことは、可能な限り叶えていきたいんだ。それが、俺の望み」
頬に添えられた手の平の温もりが、心地よく胸に沁みる。
想われている。
それが恋や愛かどうかまでは、ケレスには分からない。
だが、確かに彼の中には、自身が存在している。想われていることを、はっきりと自覚できる。
「……ありがとう」
胸から溢れ出しそうな気持ちで、言葉がつまり、ようやく絞り出したのはたった一言。
もし病み上がりでなければ、彼に抱きつきたいくらいだったが、今はそれよりも生理的な欲求が勝った。
「それじゃあ、さっそくお願いしていい?」
「あぁ、なんだ?」
何でも言ってくれ、と身構えるソウルに、ケレスは続ける。
「お風呂入って、寝巻きを着替えて、部屋の空気の入れ替えをして、病人食から栄養食にシフトして、ベッドのシーツを取り替えたいの。だから、しばらく独りにしてもらえない?」
そして、唖然とした表情でこちらを見つめ返してきたソウルの答えを想像して、微笑みを浮かべた。




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