Plumage Legend 〜二重の神話〜 第四章・蠢動
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 「ケレス? 朝……いや違う、もう昼だぞ? 寝坊どころの話じゃない時間だぞ? どうか……したのか?」
声すら聞こえないケレスの部屋に、ソウルは首を傾げた。
 おかしい。
いつもなら自分が起きる一時間も前に起床、朝食の用意までしているはずなのに、今日は朝から今まで、一度も顔を合わせていないのだ。
「おい……ケレス」
 無断で女性の部屋に入るなんて、居候でしかない自分に許されることではない。だが、何度呼んでも答えの帰って来ない異変に、ソウルは彼女の部屋のドアを開けた。
無遠慮にその奥へ足を踏み入れる。
 満ちている甘い香りは、彼女の存在ゆえか。
真っ直ぐ前に進み、窓寄りに配置されている彼女の眠るベッドは意識的に視界に入れないようにして。
レースのカーテンを両脇のタッセルで留め、昨夜彼女をベッドに横たえた時、ほんの少しだけ開いておいた窓を全開にする。
「ん…………ソウル……? 今、何時……?」
太陽の位置は、ずいぶんと高い。それに気づいたか、ケレスは小さく声を上げた。
「もう昼だ。どうかしたのか? 調子、悪いのか……?」
あまりにも力ない声音に、ソウルは身を返してベッドサイドに歩み寄った。
ケレスの顔を覗き込む。と、青白い顔に、血の気のない唇がわなないて声を発する。
「……ちょっと。気持ち悪くて……頭、割れそう。ごめんね、朝御飯作れなくて……」
でも、お昼御飯はまかせて、と呟いて、ケレスはベッドから強引に体を起こした。一瞬傾いだその背を支えようと、ソウルは反射的に手を差し伸べたが、彼女は大丈夫だと首を振ってその手を拒絶した。ゆっくりと体を反転させ、立ち上がろうとして……力が入らなかったのか、ふらりとよろめく。慌てて抱きとめたソウルは、その体を支えて再びベッドに横たえた。
「いいから。余計酷くなったら辛いだろうし。……風邪……か」
「ん……多分、昨日の薄着でお散歩が……」
お恥ずかしい、と頬を掻くケレスに、ソウルは小さく首を振る。
「俺の気が利かなかったんだ。寝てろ、薬持って来るから。あとは……、小父さんに連絡して、……何か欲しいものは?」
ケレスの額に手を当て、熱っぽいそれに小さく息をつく。ベッドにはブランケットもあるし、特に寒いということはないだろう。
「…………ココア。喉、痛いから……でも、甘すぎないのがいい」
「分かった。……絶対に熱があるから、今日は一日そこでじっとしてろ。治るものも、治らなくなる」
「でも、私がいないと」
「困るけど、それはケレスの不調を犠牲にしてまでどうにかしなくちゃならないことではない。今くらい俺の言うことも聞け」
熱に浮かされた、甘い視線。わずかに乱れる息が、昨夜の彼女の姿に重なる。
ベッドの上で乱れる栗色の髪も、それは、内に眠る記憶と同じもの。
既視感が、脳髄を焼く。軽く頭を振って、爛れた本能を押しやった。
ケレスは今、病気なのだ。
「……心配しなくても、多分、ベッドから出る、気力ない……あ、駄目。ホント、部屋、回ってる……」
ゆっくりと、ケレスが瞬く。
再び眠りに落ちていきそうな気配に、ソウルはそっとベッドから離れた。
「駄目だなぁ。私、このままじゃホントにソウルのこと……」
呼ばれ、ソウルははっと顔を上げる。が、ケレスはうとうとと、瞳を閉じてしまった。続けられるはずだった言葉は遮られ、そのまま、寝息に変わる。
「……今のはどういう意味なんだ、ケレス」

 彼は、優しく瞼にキスを落としてくれた。
それは脆い砂糖菓子のように甘く、同時に、体の奥が疼くような快感を引きずり出す。
見られたくないものを、隠しているものを、無理矢理さらけ出してしまう酷い口付け。
それでも、彼のことを嫌いになれない。
彼は、自分にとって唯一無二の人だから。
淡い金の髪も、怖くなるほどの美貌も、空にも海にも負けることのない至上の蒼い瞳も。
すべてが、特別な人なのだ……。
 再び目を開けると、そこには以前自分で『夢見る蒼』と賞した瞳が、驚くほど至近距離にあった。互いに驚いたらしく、蒼い瞳はケレスの顔の前から仰け反る様にして離れ、ケレスはベッドをずりりと滑り落ちた。
心臓が、狂ったように鳴り響いている。
それは、さっき夢現で見たあの甘い口付けのせいか、それとも、至近距離にあったソウルの瞳のせいか。
そんなこと、分かるはずもない。
「おねぇちゃーん! おにぃちゃーん!! とーさんが御飯作ってくれたよー! 一緒に用意してるから、二人ともそっちで食べろって」
ふいに、互いの沈黙を破るように、階下からトルクの声が響いてきた。
「なっ……だ、駄目っ! むぐぅっ……?!」
「分かった、今行く!」
ソウルが、拒絶しようとしたケレスの口を塞いだ。
一瞬脳裏をよぎった、甘く容赦のない口付けは降って来なくて、思わず胸を撫で下ろす。
よく考えれば、恋人でも婚約者でもないソウルが、他ならぬソウルがそんなことをするはずがないのに。
だが、あの瞳の人ならば。
ソウルと同じ瞳を持つ、けれど、正反対とも言える性格の彼ならば。
それくらい、平気でやってのけるに違いない。
ゆっくりと、口元に当てられていたソウルの手が離れる。
「ケレス、ちょっと待っててくれ。食事、取ってくる。薬はその後……ケレス? 何膨れてるんだよ」
考えれば考えるほど、彼とソウルの差が開く。どちらがいいなどとは選べないが、その大きすぎる差が不満だった。そのまま、ソウルの目を避けるように寝返りを打つ。返事は、しない。
「ケレス? 言わなきゃ分からないぞ」
覗き込まれて、その蒼の瞳に見つめられて。
「……何でも、ないの。ただ、その……ソウルにそこまでして欲しくない。風邪引いたからって、そんなの、何か嫌」
混濁した記憶と現状に、ケレスは唇を尖らせて呟く。
「……病人が強がるな。さっきまであんなに弱気だったくせに。あんまりごねてると……強硬手段に出るぞ? いいのか?」
言われて、わけが分からずゆっくりと顔を上げた。
すると、間近に、吐息がかかるほどすぐそばに、ソウルの整った顔があった。
息を飲み込む。
すぅっと目を細めたソウルが、小さくケレスの耳元に囁いた。
「ケレス。俺は、男なんだ」
「え、あ、あの、それは」
どういう意味か、と、聞きたくて、それでも聞けなかった。
ぎしりとベッドのスプリングが悲鳴を上げ、視線を走らせると、ソウルが片膝を乗り上げたということが分かった。
ぐいと肩をベッドに押さえつけられ、逆の手の中指が、するりと上掛けをめくった。
「やっ……」
「困ったな……俺も無理矢理は、嫌だったんだが」
あらわになったケレスの寝間着の襟に、指先が触れる。さらに胸元にあしらわれたレースの合わせ目に触れて、それを広げようと動いた。
……本気、かも知れない。
「ソウルの、意地悪……!!」
恐怖に押し殺された悲鳴が、喉の奥から搾り出された。ソウルを映す瞳は、涙に潤んで視界をぼやけさせる。
「分かったわよ。分かったから、その指、止めて……!!」
やろうと思えば、突き放すことも、大声を出すことも出来たはずなのに。
ソウルの蒼い瞳を前にして、どちらの行動を取ることも出来なかった。理由は、分からない。ただ、分かるのは。
今も至近距離でこちらを見つめてくるソウルの行動を、拒絶できないということだけ。
数度ソウルが瞬いて、素早く指を引いた。間近くにあった顔が、すっと遠ざかる。
「大人しくしてろ」
「……はぁい」
そう言い残して、ソウルはケレスに背を向け、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「……おねーちゃん? ココア持ってきた……んだけど、何? 顔、真っ赤」
入れ違いに、マグカップを持ったトルクがやってきた。呆然としていたケレスは、不思議そうなトルクに興味津々見つめられて、返答に困る。なんと答えればいいだろう。
「……えーっと。その、ソウルは『男』の人なんだなって……」
上掛けを引っ張って、顔を隠す。どんな顔をしているのか、これほど不安になったことはない。しばらくそうして小さくなっていると、上掛けの向こう側から、深いため息と、諭すようなトルクの声が聞こえてきた。
「……当たり前でしょ。この間裸も見たくせに」
「あれはっ!」
不可抗力よ、と答えようとして、上掛けを下ろすとトルクの顔があった。
「僕は、ずぅっと昔から思ってたけど? お兄ちゃんみたくなりたいって」
……それは、羨望の眼差し。今でも十分なくらいに紳士的なトルクが憧れるくらいだ、それは、とてもすごいこと。
「……ソウルって、なんか、性別を越えて綺麗よね。だから、こう、男だとか、女だとかじゃない別の区分の中にいたというか」
「うわぁ……お兄ちゃんかわいそう」
呟いたトルクの言葉の意味が分からないまま、ケレスはドアのノックの音を聞いた。
「トルク、開けてくれ」
「はーい」
サイドボードに、トルクが持ってきたココアのカップが乗せられる。
ぱたぱたとドアを開けに走ったトルクの後姿を見ながら、さっきの言葉の意味を考えたが、やはりよく分からなかった。
「ケレス、自分で食うか? 食わせてやろうか?」
「御飯くらい自分で食べられるわよ!! 見くびらないで!!」
片手にトレイを携えて、ソウルが再び部屋へと戻ってきた。
トレイの上には、白い湯気を上げる陶器の器が乗っている。
「それだけ喋る元気があっても、病気は病気だろ」
「そ、それは、そうだけどっ」
近づいてくる、ソウルの気配。
どんどんと混乱していく頭の中で、もう、何も考えたくなかった。
「とりあえずミルク粥だそうだ」
間近くで響いた声にゆるりと顔を上げると、ソウルが持ってきたトレイをトルクに手渡していた。何をするのかとぼんやり眺めていたら、横たわっている自分の背に、ソウルの大きな手が当たる。そのままケレスは、何でもないように簡単に抱き起こされた。
あまりにあっけなくて、ケレスはぱちぱちと目を瞬いて、ソウルに首を傾げてみせる。
が、ソウルは何事もなかったかのように背中にクッションを当てて、姿勢を整えてくれた。
スツールを引き寄せ、そこに座ったソウルが、トルクから再びトレイを受け取る。そして、陶器製のスプーンで粥をひとさじ掬った。味見でもするのかな、とその様子を目で追っていたケレスの目の前に、スプーンが差し出される。
「ほら、ケレス。熱いぞ」
「……へ? あ、あの」
本気だったのか、とケレスは青ざめた。何が楽しくて、ソウルに食事の世話をしてもらわなければならないというのか。
「どうかしたのか? 食わないのか?」
真面目な顔で見つめられても、こちらが困る。羞恥と、衝撃がない交ぜになって混乱する。
ケレスの内心の戸惑いを無視して、ソウルが軽く息を吐いた。仕方ないな、と呟いてそのスプーンを自分の口に運ぶ。諦めてくれたのかと、ケレスもほっと息を吐き出した。
「あぁ、小父さん、料理も上手かったのか……トルク、お前も食うか?」
「うぅん。僕よりおねーちゃんに食べさせないと、お薬飲ませられないよ? 僕は、後で父さんと食べるから」
「え、あの? いや、別に、食欲ないしほらその」
悪戯っ子の顔でウインクされて、ケレスは一瞬、わけがわからず眉を顰めた。が。
「スプーン一本しかないね」
言われて、意味に気付いて息を飲んだ。頬が上気していくのを自覚する。
それは、ようするに。
「ケレス? いつまでも意地張ってないで、食べて薬飲んで、早く寝た方がいい」
優しく囁くソウルの顔が、至近距離に迫ってくる。
どう考えても逃げられそうにないというのに、ソウルは、起き上がったケレスの肩をしっかりと固めて身動きが取れないようにしてから、スプーンを差し出した。
もう、逃げられない。
迫ってくるスプーンを受け入れるために、そっと唇を開く。
横目に、トルクがこっそりドアから出て行ったのが見えた。




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