Plumage Legend 〜二重の神話〜 第四章・蠢動
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 ケレスが、テラスに出て空を眺めている。今夜は、月が満ちていた。青い、ほのかに冷たい光満ちる夜。
栗色の髪はさらさらとその背を流れ、月の光に照らされて煌いている。
わずかに聞こえてくるのは、耳に覚えのあるメロディーだった。涼しく優しい音色があたりに響く。
 窓辺で月を見ていたソウルは、ケレスの行動一部始終を眺め、更に聞こえてきた音色に引き寄せられて、久しく触れていなかったヴァイオリンのケースを開いた。
 ケレスが口ずさむ音色は、どうやら有名なコンチェルトの内の一つ。これなら、何度か弾いたこともあって自分も暗譜しているし……。
暗譜したその曲に多少のアドリブとアレンジを加えて、ケレスの鼻歌に自分の音を重ねる。ヴァイオリン特有の高い、深みのある音色。一応、義父の与えてくれた物の値打ちは分かっているつもりだ。
……自分のために、出来得る限りの事をしてくれた義父。だからこそソウルは、義父の意志に従っていた。
ふと、気配を感じて目を開ける。と、バルコニーの手すりに、梟やみみずくなど、夜目の利く鳥が何匹も集まっていることに気付いた。
演奏に惹かれてやってきたのか、それとも。
 不意に、ケレスの歌声が止んだ。それまで気持ちよく弓を滑らせていたソウルは、何事かと驚いて手を止め、バルコニーから身を乗り出す。手すりに並んでいた鳥がいっせいに舞い上がり、その向こうで、ぼんやりしたケレスがゆっくりと腰を上げるのが見えた。
 夢の中を漂うように、ケレスがサンダルを履く。ガウンも着ずに、ふらふらとおぼつかない足取りのまま庭へと出て、噴水の前へ立った。ゆったりと縁に腰掛け、水鏡に映る自分の姿を見て、ケレスは切なげに、小さなため息をこぼす。
何を思い悩むことがあるのか。その可憐さで、その儚さで。
月に照らされ、普段以上に弱々しく見えるケレスの様子に、ソウルは自分のことを下世話だと思いながらも、近寄らずにはいられなかった。
物憂げに瞳を揺らすケレスを間近で見たい。手の中のヴァイオリンを、ケースの中に下ろす。
――きっと、インスピレーションが沸くだろう……。
 二階のバルコニーから軽い足音を立てて着地したソウルは、ケレスに気付かれないようそっと噴水に近づいた。月の光を浴び、僅かに気分が高揚している。それを、自覚できる。きっと今の自分の目は、ケレスを……獲物を狙う、肉食獣のようにぎらついていることだろう。自身の熱を持て余しながら、ソウルはゆっくりと、ケレスの背後に立つ。
 水面を見つめていたケレスが、映ったソウルの姿を認めて顔を上げた。
その顔に、瞳に。熱くなっていた体が、一瞬で冷えた。冷水の中に放り込まれたように……心臓が凍るほどの衝撃。
……ケレスは、泣いていた。いや、正確には、いつ涙がこぼれてもおかしくないほどの涙をためて、ケレスは必死で涙をこらえていた。
リファインドの屋敷では、年老いたメイドが数人いただけで、自分より年下の異性など見たことがない。学校では、異性どころか同性さえもまともに近づけた記憶がない。そんな環境で育ってきたせいか、泣いている異性への対応など、すべての知識を動員しても出て来ない。
 たいていは、そんな場面に出くわしたとしても『卑怯だ』と思う。泣けばすべて許されるように思っている異性は少なくないはずだから。
 しかし、ケレスは違う。普段涙など欠片も見せない、明るい笑顔で過しているから、突発的に感情が爆発する。ふとした拍子に泣きたくて泣きたくて仕方なくなるのだと、いつだったか、こんな状況の時に教わった。溜めこんだ涙は月に一度くらいの周期で決壊し、特に夜……一人で、ケレスが夢を見ながら泣いているのをソウルは知っている。
深夜、小さくソウルを呼ぶ声に、そっと部屋のドアを開いてみれば、そこに立っているのは真っ青な顔をしたケレス。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、彼女はソウルの名を呼んで、熱を求めて指を伸ばす。
……ケレスが消えてしまうのではないかと心配になるのは、そんな時だ。心細げな表情でソウルを見つめ、どこにも行かないで……朝が来るまで傍にいて、とすがってくるケレスを、どうして一人に出来ようか。それを拒んで朝様子を見に行けば、ケレスのいた痕跡は跡形もなく消え失せて、そして……。
嫌な考えを振り切るために頭を振ったソウルは、気遣うようにケレスの傍らに立つ。構わないから、まだ大丈夫だから、と強がるケレスの涙を人差し指で優しく拭い……隣りに腰掛けたソウルは、風に折れてしまいそうなか細い少女を覗き込んだ。
「ケレス、発作か?」
「……そう、かも。ソウルのせいよ。あんなこと、言うから。あんな風に言われたら……我慢、出来なくなるじゃない。大丈夫だって思ってるのに、大丈夫になりたいのに……」
言ったケレスの瞳から、ほろりと大粒の涙がこぼれた。言葉が何一つ浮かんでこずに、ただ、呆然とそれを見ていることしか出来ない自分に、苛立つ。
「ケレス……目が、腫れるぞ。これ以上泣いたら、学校、行けないぞ」
ようやくのことで捻り出した言葉は、実につまらないものだった。
「いいもん。明日休む日だから。ソウル、気にしないで……」
首を振って、紡がれる大丈夫という言葉。そんなはずない、と、否定してしまいそうになって、思わず目を逸らしたソウルは、一つ深呼吸をしてから、ケレスの体を温めるように抱き寄せた。
「…………ソウル……?」
「いいから、黙って暖められてろ」
冷たくなった、ケレスの体。ただの気休めでしかないが、これでケレスの心まで温まればいい。少しでも楽になれば。思って、ただ、腕の中の体を抱く。
「……ソウル、気持ちいいやぁ……ん……」
胸に頬を摺り寄せて、ケレスがくすくすと笑い声を洩らした。涙は、止まったようだ。
 とりあえず泣き止んでくれたことに安心したソウルは、しかし今度はまた別の意味で落ちつかなくなった。そういえば、自分から進んで、こんな位置までケレスに近付いたことは一度もなかった。……どこか、変な気分だ。
「……? ソウル……? どしたの? ドキドキいってる……」
「……そうか?」
それは、規則正しい心臓の音だろうか。それとも……乱れた想いを悟らせる音だろうか。戸惑うソウルに、ケレスはまた微笑んだ。
「そう。でも、安心する。生きてるなって。ソウルが、生きてるんだなぁっていう証だから……。あったかいし、安心できて、好き……」
好き。
特別な意味が込められているわけではない。
分かっていても、その言葉に、ソウルは大きく揺さぶられた。
「……? また、おっきい音になった……。どしたの? 顔、赤い……」
心拍数を急上昇させながら、ソウルはそっと息をつく。今回の発作は、突発的だったせいか、どうにか早めに収まったようだ。普段ならば、一晩中泣き通しだ。
……なぜ一人で思い悩む必要があるというのだろう。何もかも話してくれればいいのに。
そのつもりで、共に午後を過したのに。
涙を浮かべた笑みをそっと伏せて、ケレスがふらりと倒れ掛かってくる。
「泣かせたのは、ソウルなんだから。責任、とって」
「責任……」
わずかな距離さえ詰められて、真下から、何かに見とれるような、甘い瞳でソウルの顔を見上げ、こちらに手を伸ばしてくる。思わず呼吸を止めたソウルの頬を、ケレスがゆっくりと撫でた。触れられた部分が、熱い。
「ソウル、私ね……してもいいよ? ソウルなら、いいの……」
眠そうな声と瞳で告げられた、頼りない誓いの言葉。ソウルは首を傾げる。
「何を、してもいいんだ?」
「えっと……婚約。とーさんが、言ってた……よね?」
「あ、あぁ……そう言えばそうだったな。で? 婚約が、どうした?」
「婚約……でしょ? あれ、してもいいの…………ソウルとだもん、いいよ……?」
 ケレスの小さな呟きに、ソウルの眠気は吹き飛んだ。しかし声が聞き取りにくくなったケレスの瞳は、もうほとんど閉じている。
いや、寝惚けていたとしても、ケレスはそんなことを言わないと思うが……。
「ソウルが、一番好き……」
焦点の合わない目で微笑んだケレスの体から、ゆっくりと力が抜けていった。
ぴったりと擦り寄って、ソウルと上着の間に身を沈めたケレスが、優しい夢を紡ぐ。くたりとした細い体は、ソウルが少し動いただけでも腕の中から滑り落ちてしまう。
軽く羽毛でも抱いているような気分になって、ソウルはそっとケレスの質感を確めた。
――自分よりも小さい体。両手で抱きしめれば余る。強く抱けば潰れそう。軽く抱けば逃げて行ってしまいそう。暖かな、赤い血の通う感情豊かなケレス。
 生身のケレスの体。
それこそを、彼……いや、自分が求めていたのだ。
香りが、温度が、その質感が、ソウルの脳髄を痺れさせる。もっと深く、と求めようとしたその瞬間。
ゆっくりと、地上が翳った。
月明かりさえも遮る、無粋な雲が出て来たようだ。熱に浮かされたようにぼんやりとした頭を叩き起こし、ガウンを着ていないケレスに出来るだけ外気が当たらないよう気をつけて、ソウルは屋敷に戻った。
 廊下を歩きながら、起こさないよう注意して抱き直したソウルは、ケレスの体に違和感を抱いた。病的な感じはないものの、同年代の少女達と比べれば驚くほど痩せているケレス。遠い遠い過去にいる『彼女』でさえ、これほど小さく、軽くはなかった。
しっとりした重量感と、柔らかな肌、流れる髪。抱き心地のいい彼女に比べて、ケレスはこれほどまでに軽く小さく、頼りない。
ケレスに言わせれば、太らないのも『体質』なのだそうだが、もう少し全体的にふっくらした方がいい。このままでは、触れたとき……絶対に壊してしまう。妙な確信を抱いて、もう一度その体をゆっくりと持ち上げて。ソウルは自らの間違いに気付いた。
「綺麗な線……こんな薄い寝巻きじゃ、丸見え」
ほっそりと伸びた腕の辺りばかり見ていて、丸みを帯びた曲線を描く胸元や、形よく引き締まった優美な背中から下肢までのラインはまったく目に入ってもいなかった。
それは、未発達の少女だけがもつ、生まれたての水泡に似た脆い、脆すぎる美。
女になりかけた、清く神聖な乙女だけが持つ、幻のような芸術。
「……あの人だったら、きっとこんなにオイシイ状況は逃さず戴くんだろうけど」
だからと言って、自分がそうなれるわけではない。
ただ、切ないのは。
ケレスが、すっかり安心したような表情で、すなわち、ソウルを信じきったまま眠りこんでしまったということ。
それはようするに、ソウルの『男』を認めていないということであって。
「……なんだか複雑な心境だな」
そう考えると、ケレスがこうして自らの前で無防備でいることはいいのか悪いのか、分からなくなった。




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