Plumage Legend 〜二重の神話〜 第三章・胎動
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 ――参った。
ソウルは、小さく息を吐き出した。
ケレスを迎えに来ただけで、なぜこんなにも自分は『人間磁石』化しているのだろう?
こんなはずではなかったのだ。ケレスが、もっと早く……授業が終わってすぐに出て来てくれていれば。
往来を行く人々に遠巻きに見られながら、ソウルはひたひたと押し寄せる嫌な気配と戦っていた。
その悪寒が、一段と濃くなったとき。
「お迎えですか?」
耳に届いたのは、聞き覚えのある声。そして、目の前に立ちはだかったのは、見覚えのある姿。
「あなたはもしかして、スマル=エフロートさんのところのお弟子さんですか? お嬢さんのお迎えですよね? あまりにも退屈しているようでしたので、思わず声をかけてしまいました。不躾な行為をお許しください」
 そこにあったのは、記憶の中にいる彼より青白い肌、黒髪、黒い瞳。少し目線を下げたところにある顔は、とても整った作りだが、どうも好きにはなれない。
相手は、しつこく長ったらしく回転の速い舌で勝負するタイプだ。こういった人間が相手のときは、ただひたすら耐えるしかない。
義父がまさしくそんな人間だったソウルにとって、耐えることはそれほど苦痛ではない。
慣れとは恐ろしいものだ。
「…………ソウル=リファインドだろう? 覚えていないのか?」
もともと好ましい感情を抱けるはずもない相手だ、言うこと為すこととにかく気にくわないが、今は耐えるしかない。ソウルは、聞こえないものと考え、ひたすらに沈黙を守る。
「お前が逃げた時に、呪ってやると……そう言ったのが僕だ。だから」
「………………」
「おい。何か言えよ!!」
ほら、勝った。
ソウルは胸の内でほくそ笑んで、応じる。
火に油を注ぐと分かっていて言う、確信犯のような凶悪さで。
「……何か用か?」
「ふ……ふざけるな! まだ馬鹿にする気か?!」
怒りに任せて殴りかかってくるラーダの腕を、軸足はそのままに、軽く避ける。勢い余ってたたらを踏んだラーダの背中を見ながら、ソウルはため息をついた。
「誰が馬鹿にした? 俺は、真面目に問うただけだ。何か用か、と……」
「う、うるさい!! だから、何度も言うが、僕はお前の大事なものを奪いに来たんだ!! 言え!! お前の今一番大事なものは……!!」
問われ、ソウルは考える。
「大事なもの……か。強いて言えば、命、だろうか。まだ……俺は、死ねない……」
ソウルの呟きに、ラーダは驚いたように目を見開いた。
何か、変なことを言ったろうか?
生きたいというのは、至極当然なはずだ。返ってきたラーダの反応に、ソウルの方が驚いた。
「……どうかしたのか?」
「……お前が、自分が大事とか……死にたくないとか言うと思ってなかったから……!」
怯えたように後図去るラーダに、ソウルは首を傾げた。
自分が大切なのではない。彼女が大切なだけ。
死にたくないわけではない。死ぬわけにはいかないだけだ。
微妙な見解の違いがあるのは確かだが、そんな些細なことはどうでもいいだろう。
生きることの中心には彼女が必ずいて、ソウルにとってはそれが全てだから。
「……そうか。では、変わったのだろうな」
出会ったことが、すべての始まり。
彼女に出会ったことが、変化の理由だ。
「……何で……誰だ?!」
瞬いた次の瞬間、間近くに彼がいた。伸びてきた手が、ぐいと上着の布地を引く。
不意を突かれ、ソウルは一瞬で胸倉を捕まれていた。
驚きに息を呑む。ソウルの知っている彼には、こんなことをする度胸などなかったから。
「……誰? 誰……って、何がだ……?」
「お前をそんな風に変えたのは……? 誰のためにそんな風になったんだ……?!」
 言われ、思わずその姿を探した。そして、視界の端に目当ての人影を見つける。
校門を抜けて、ケレスが駆け寄ってくるのが見えた。
彼女にだけは、こんな恰好を見られたくない。
胸元を捕んでいるラーダの手を強引に振り解き、服の乱れを直す。ソウルは、きりと唇を噛んで、ケレスに向き直った。彼女が、ソウルにとっての至上のもの。この命を失えない理由。
 にっこりと、男なら誰でも蕩けてしまいそうな極上の微笑みを浮かべ、ケレスがぱたぱたと駆け寄ってきた。だが、彼女は空気に敏感だ。ソウルとラーダの間にある重く澱んだ気配に怯んだのか、一瞬立ち止まって、首を傾げる。
「ソウル?」
押し黙ったままのソウルに一度視線をやったラーダが、不思議そうなケレスにゆっくりと目を向けた。ソウルとケレスを見比べ、ぱちぱちと目を瞬く。
しばらくそうして、大人しくしていると思ったら、不意に彼は顎を上げ、嘲るように……傲慢にソウルに向かって告げた。
「…………これが、お前しか持っていないものか。これだけ美しければ奪い甲斐もある。お前には幸せはやらない。お前を幸せにする要素は、僕が全部奪ってやる。昔、お前が僕にしたように……!」
……少しは成長したのかと思ったが、そうでもないようだ。ソウルはそっと溜め息を吐き出す。
いつかと、同じ言葉。普通の人間は怯むのかもしれないが、残念ながらソウルは普通を自覚しない。自他共に認める特殊だ。
だからソウルは、ラーダを無視して、そっとケレスに視線を注いだ。
「……ソウル?」
控えめな要請にも、彼女は必ず気づく。
小走りにソウルに駆け寄ってきた彼女は、無言のまま立ち尽くしているソウルの頬をそっと撫でた。
「ソウル」
 ケレスが再び、意志を持ってソウルの名を呼んだ。問いかけではなく、ただ、ソウルを求める響き。キーの高い、けれど耳障りではない優しい声の主に、ソウルは焦点を合わせて、小さく頷いた。翡翠の慈愛に満ちた瞳が、優しくこちらを見つめてくる。
「あぁ……学校、お疲れ様」
「ソウルも、お迎えご苦労様」
言って、彼女は微笑む。花がほころぶような、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
間近にケレスを感じ、それだけで普段の余裕を取り戻せたソウルに向かって、ラーダが苛立ったように言い募る。
「僕は、彼女と婚約するよ。お前には渡さない。いくらお前が優れていても、それは四年も前のこと……今は違う。もう、お前には負けたりしない。決して、な」
念を押したラーダの言葉に、ソウルは眉を顰めた。
「それは」
ケレスはまだ知らないのに、と言いかけ、口を噤む。ソウルは隣で不思議そうに彼を見ているケレスに視線を移した。
「ちょっと、ソウル……婚約って? それ、私のこと? 一言も聞いてないんだけど……だいたい、ソウルこの人と知り合いなの?」
ケレスに耳打ちされる。彼女は分からないことだらけに違いない。
「貴方、誰?」
 ……人間、素直すぎるのも困りものだ。
小首を傾げて問い掛けたケレスを横目に、ソウルはふっと息を吐き出す。
確かに、知らないことはその場で聞け、とよく言うが、何も本人に聞くことはないだろう。
ケレスの言葉に、ラーダは戸惑ったように瞳を揺らしている。ソウルの視線を意識してか、やや引きつった微笑みを浮かべた。
「……ご存知、ありませんか? ケレスさんの婚約者の、ラーダ=イーブルバイスです。どうぞよろしくお願いしますね」
 ラーダの答えに、ケレスは訝しげに首を傾げる。納得がいかないのだろう。
彼女のことだから、婚約が本当のものだと仮定して、考えているに違いない。
父が持ちかけた話なのか、それとも持ちかけられた話か、と。
「イーブルバイスなんて名前、聞いたことないんだけど。ソウル、知ってる? そんなに有名なの?」
無邪気に訊いてくるケレスは無実だ。だからこそ質が悪い……。
「……ケレス、イーブルバイス家はリファインドより二つほどランクを落とした同業者の家名だ。メルト=シティで一緒だったんだよ」
だから、知ってた。
ソウルの説明に、ケレスは納得して、微笑み頷いた。
「そっか。だからなの。ようやく納得」
うんうん、としたり顔で頷く彼女に、ソウルは、あえて何も答えなかった。
こんなところでいつまでも会話を続けていても、埒があかないのは事実だ。早く帰りたい。いや、むしろラーダの前から去りたい、と言うべきか。
ソウルはひとつ頷いて、抜け出すなら今だ、と悟る。
「……ケレス」
顔を上げ、ケレスの腕を取った、そのときだった。
「え?」
 気配もなく、ケレスの傍らに立っていたのは、女だった。
大きな屋敷には必ずいる給仕が着ている、紺のお仕着せを纏った女。顔を真っ直ぐ上げているというのに、なぜか印象に残らない顔をしている。
血の気の薄い、どこか死人を思わせる白すぎる肌にかかる、淡いグレーの髪。気配は酷く弱く、まるで、今にも陽光に溶けて消えてしまいそうだ。
ただ、ひとつ。
前髪の奥から覗く、深い暗赤色の双眸だけが、彼女の存在を生者として意識させる。
何かの、強い強い感情を、意志を宿した瞳だ。
「お迎えに上がりました」
「――あぁ、エル。君は初めてだろう? 彼が、ソウル=リファインド。彼女は、君も知っての通り、婚約者のケレス=エフロート嬢。こっちは、僕の身の回りの世話をしてくれている……」
「エル、と申します。はじめまして」
頭を下げると同時に、さら、と、ようやく肩につく程度の髪が揺れた。
「それでは、私どもはこれで。失礼いたします」
「エル? 待ちなよ、僕はまだ」
不機嫌そうに顔を顰めて見せた彼に、静かな、けれど有無を言わせぬ声音がかけられる。
「――ラーダ様」
「……分かった、行こう」
頷いて、彼はこちらに背を向けた。
「……僕は、負けない。絶対に」
そう囁いて、ラーダは、エルという給仕を伴って、ゆっくりと歩き出す。
その背中は小さく細く、やはり、ソウルの記憶にあるものと、さほど変わらなかった。




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