Plumage Legend 〜二重の神話〜 第二章・鼓動
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 朝早くから浴室に直行したケレスは、隅から隅まで念入りに身体を磨いてやっと、身体から夢の感触が消えて浴室から出ることが出来た。
服を着替え、きちんと髪の水気を拭き取りながら、不機嫌にため息をつく。
「あ、お姉ちゃん。おはよう!」
 今日はいつもにも増して早起きしたトルクは、とても機嫌のいい挨拶をくれる。普段なら笑顔でおはようと返事が出来ただろうが、現在不快指数三割増のケレスは、爽やかなトルクの声に苛立ちを覚えた。きっとものすごい目つきになっているだろう。その視線を何の罪もない弟に向けて、微笑んだ。
「おはよう」
 ……そんなに、怖い顔だったのだろうか。
トルクの顔が途端に青ざめ、壁にびたん、と張り付いた。ゆっくりと蟹歩きをしながら、洗面所から逃げ出す。ケレスはその逃げ足の速さにほんの少し驚き、そして……反射的に、トルクを追いかけた。

 「お兄ちゃんッ!!」
「…………あぁ……おはよう。何だ?」
朝が大の苦手で、低血圧もいいところのソウルは、やっとベッドから体を起こしたばかり、という正真正銘寝起きだった。ぼんやりと夢現の狭間をさ迷いながらのんびり返事をしたソウルだが、さすがに耳元で金切り声を上げられるのは遠慮したい。
「何ボーっとしてんの?!」
「ぼーっと……って、言われても、な……仕方ないだろう、体質なんだ……」
「でも、お姉ちゃんが! すっごい目して睨むんだよ? 怖かったよぉ……」
どうやら半泣きになっているらしい。さすがのソウルも只事ではないなとベッドから降りて、身支度を始めた。寝巻きにしていた綿のシャツを乱雑に脱ぎ捨てて着替えを探しながら、ケレスはそんなことを言うほど身勝手ではなかったはずだと首を傾げる。
「………………ケレスが? 珍しいな」
ソウルの言葉に、気が動転していたトルクはほんの少し落ち着きを取り戻す。
「お風呂、入ってたみたい。髪、濡れてたから……」
「風呂? それも珍しいな、ケレスが朝風呂なんて……」
そこへ、ケレスが怒鳴り込んできた。扉の開く音に、ソウルはゆっくりした動作で髪を掻き上げ首を巡らし、トルクはびくっと体を震わせる。
「トルクっ!! 何よ、人が返事しなかったからって、ソウルの部屋に逃げ込むことないでしょ?! ……ッきゃ――――っ!!」
すごい迫力で捲し立てていたケレスだったが、少し冷静になってきた途端、絶叫して部屋から出て行った。
「……………………」
唖然として顔を見合わせた二人は、しばらくして、あぁなるほどと頷いた。
「いくらケレスの気が強いからって、さすがに野郎の裸見れば逃げるだろうな……」
 上半身裸のままケレスを迎えていたことに気付いたソウルは、一先ずケレスの怒りから逃げ切ることが出来て、ほっと息を吐いていた。
 しかし、安心したのも束の間、朝食時に食堂へ下りて行く必要があったのをすっかり忘れていた。ケレスが『朝食は皆でとる』という方針なので、用意してもらっている者は文句など一言たりとも言えない。
 仕方なく、一階の食堂に向かうと、やはりと言うか、ケレスは一言も口をきいてくれないし、目を合わせようともしない。だんだん居心地の悪くなってきたソウルは、ケレスに頭を下げる。
「…………朝のことは悪かった。確かに、俺の不注意だった。すまない」
「知らないわよ! お嫁にいけなかったら、ソウルのせいよ!!」
頬を赤く染めたまま、ケレスは食卓でのんびりくつろいでいるスマル氏に紅茶を注ぐ。
「心配しなくても、そうなったらソウル君のところに嫁げばいいだろう?」
スマル氏がにやりと笑んで告げた言葉に、ケレスは一瞬、気を殺がれたように呆けた表情を見せた。思ってもみなかったことを言われ、表面上はおそらく何ら変化しなかっただろうが、内面では非常に焦ったソウルに、彼女はちらりと視線を注ぎ、ますます頬を赤らめ、絶叫した。
「絶対イヤ!!」
 ケレスにすごい勢いで睨まれて、食事もそこそこに自室に引き上げたというのに。
再びケレスの前に立ちはだかったソウルに苛立っているのだろう、ケレスの表情は怒りに満ちている。このままでは、ソウルは迫力負けだ。
誰とは言わないが、彼女の過保護な身内の言いつけで、ケレスのご登校のお見送りを日課にしているソウルは、ケレスの怒り……もとい八つ当たりを一身に受けて、肩身の狭い思いをしていた。
女の子の複雑な心情とやらに理解が薄いことはきちんと自覚しているので、ソウルは何も言わず、出来るだけケレスの気を荒げないよう徹する。
となりで大きく息を吐き出したケレスに、思わずぴくりと反応してしまう程度には、気にかけていた。ソウルは、窺い知ることの出来ないケレスの怒りの理由に苦しめられながら、ただひたすら沈黙を守る。そうすることで、彼女の気が納まるのならば。
ほんの少し荒々しく響くケレスの靴音に続いて、ソウルもアーケードの角を曲がった。
もう少し行けば、校舎が見えてくることだろう。同じ方向へ向かう学生たちの視線が突き刺さって痛い。
「ねぇ。どーしてついて来るわけ?」
「いや、それには深い理由が……」
「はぁ?」
信じられないものを見るような目つきでこちらへ視線をながした彼女が、小さく溜め息をついたのはすぐのことだった。きっと、ソウルの態度から何かを読み取ろうとしたのだろうが……無理だったのだろう。眉根を寄せて、何かを思案するように爪を噛む。ソウルは、迷わずケレスの細い手首をつかみ、強引にやめさせた。
「爪の形が悪くなるから、やめろ」
「え? やだ。ずいぶん前に直ったと思ってたんだけど……ていうか、いいでしょ、そんなこと」
「指摘してくれと言ったのはケレスだったはずだ」
「……そんな昔のこと、よく覚えてたわね」
そう言って、ケレスが微笑んだ。
確かに、懐かしいことだ。その約束は、二年も前に交わされたものだったから。
「で? どこまで、ついてくる気? 過保護にも限度ってものがあるんじゃなくて?」
訝しげなケレスの声に、ソウルは少し顔を上げ、視線を逸らす。空は青い。街路樹は、緑だ。学校は嫌いだが……ケレスのためなら、耐えられる。
ひとつ頷いて、ゆっくりと視線を落とす。ケレスを見つめ、呟いた。
「……今日は、校門まで見届けるのが筋ではないだろうかと思っている」
「…………はぁ?」
それは一体、とケレスが叫ぶ声を制して、今度はソウルが、ケレスの耳元へ、柔らかな栗色の髪をほんの少し掬い上げ、指に絡ませ楽しませながら、押し殺した声で囁いた。
「……もう着くだろう? 分かってるのか分かってないのか、念のために言っておくが、お前は美人なんだ。前例が嫌というほどあるんだから、せめて今日くらいは、あまり目立つことするな」
「前例……? って、何の?」
するりと髪を解放すると、それは柔らかくケレスの耳朶に舞い降りた。彼女はぱちぱちと目を瞬き、首を傾げる。分かっていないようだ。ソウルはため息をついて言葉を続けた。
「元はと言えば、俺がこれだけお前と話すようになったのも『前例』の一種があったからだろう。まぁ、あれは俺がいたことも理由の一つだと思うが」
その言葉に隠された意味を読み取ったのか、ケレスは頬を赤く染める。
「あのことはっ、私の不注意だって言ったでしょ?」
「そうか? ……っと、校門だ。では、幸運を祈る」
 変な男に目をつけられないように。特に、転校生とか。
心の中で付け足して、ソウルはゆっくり歩調を緩めた。
「何それ?」
「祈りの言葉だ、気にするな」
分かったのか分かってないのか、ケレスは『ふぅん』と曖昧な返事をしただけで、それ以上は追及しなかった。
そして、ソウルの足が校門前五十メートルでぴたりと止まった。
もはや反射のようなもので、これ以上進むことを、頭が拒絶する。行こうとして行けないことはない。ただ、とても嫌なだけ。
「きゃあぅ?!」
それは、ケレスの悲鳴。
あ、と思ったときには、もう体は動いていた。
「あ。ソウル。ありがと……」
どこをどう動いたのかは記憶として残っていないが、妙に違和感のない仕草だったと、直感する。体が反射的に動いたようなものなのに、きちんとケレスを抱きとめ捕まえられた。
こんな時、ソウルは自分の中に別の何かを意識する。
ソウル以上に、ケレスを大切に思う、何かの存在を。
「…………びっくりしたぁ……。今私、確かにあの青い空を見たわよ」
「怖い思いさせたな。悪かった」
「えっと……もう、大丈夫よ。気にしないで……」
突然、ケレスが恥らう花のようにうっすらと頬を赤らめて微笑んだ。
至近距離で見つめる彼女の微笑。
く、と息を呑んだソウルに、問い掛けるような柔らかな視線は、わずかな意図を感じさせる。片側の手首を握り、腰に腕を回し、強く引き寄せ、不可抗力とは言えほぼ抱き締めるようなこの姿勢に、ソウルはわずかな羞恥を覚えた。いつまでもこのように触れ合っている場合ではない。ここは学校前、時刻は朝なのだ。
そばを歩いていた人々から注がれる視線が痛い。ケレスの登校時間も迫っている。
ひとつ呼吸を置いてから、ソウルはひょいとケレスの身体を抱き上げ、石畳の舗道に立たせた。その体勢が不自然ではないかと確かめて、ケレスの体からそっと離れる。
周囲の喧騒が、遠い。
「…………悪かった」
「何が? 気にしないでって、言ったでしょ?」
首を傾げたケレスは、まだ気づいていないのだろう。だが、なかったことにするには、周囲を取り囲む学生の数が多すぎる。ソウルはふぅ、とため息をついた。
「いや、だから……人間磁石と化していたらしい」
「なっ!」
短く驚きの声を上げたケレスは、はっと顔を上げる。ようやく、自らの周囲に誰もいないことに気付いたらしい。
 『人間磁石』というのは、トルクにつけられたソウルのあだ名だ。ただ歩くだけで人を集める人間磁石。一箇所に留まっていれば、その場にはいつのまにか人間が集まってくる、この不思議。ソウルには仕組みが理解できない。
「…………もう、いいわよ。いまさら……」
ケレスが、うつむいて小さな声を上げた。何事かと、ソウルは慌てて少女を覗き込む。
「お、おい、ケレス?」
「何でもないっ! 放っておいて!」
わずかな震えは、恥辱からだろうか。叫んで、ケレスはソウルにくるりと背を向けた。
「ソウルの馬鹿っ!!」
 そのまま人込みをかき分けて走り去るケレスの後ろ姿を、ソウルは半ば呆然としながら見送った。ケレスにかき分けられた人々は、何かをこそこそと囁き合いながらその場を離れて行く。
 しばらくその場で唖然としていたソウルは、叫んで走り去ったケレスの真意を理解しかね、ため息混じりに呟いた。
「……ケレス、俺を街の笑い者にしたかったのか……?」




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