Plumage Legend 〜二重の神話〜 第二章・鼓動
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 とても遠い、昔のことだった……とソウルは思い出す。
 あの頃、彼はどこまでも傲慢で自己中心的で……彼女に、迷惑ばかりかけていた。それでも彼女はいつも優しくて、強請ればいつも自らを差し出してくれて……上品な言葉遣いで紡がれる名は、どこまでも澄んで喜ばしくて。流す涙は、いつも自分のためのもので。彼女を泣かせるのも喜ばせるのも、彼にしか出来なくて。何よりも誰よりも大切な宝物である、美しい羽と蕩けるような美声を持った籠の鳥……。
 彼の腕の中、温かく柔らかな感触を残し、それでもいい、と少女は言った。ゆっくりと身を起こしながら、頬を赤く染め、恥らいを浮かべながら呟いた。
貴方の作った籠ならば。貴方のためだけに鳴くのなら。それなら、籠の鳥でもいい、と。
 あまりに従順な物言いに、思わず縊り殺してしまいたくなった。
そうすれば、本当に自分のものになる。二度と自分以外の誰かの名を呼ばない。自分以外の誰の瞳にも触れない。
永遠に美しいままの彼女の姿を、危険も何もない、血色の宝玉にでも封じ込めて。自分だけが彼女の安らいだ表情を見つめられる……。
しかし同時に怖かった。彼女が二度と誰の名も呼ばなくなる。微笑まなくなる。声を、聞けなくなる……。そう思うと、ほんの少しは妥協してやらねば。
……彼女を縛り過ぎないように。

 薄い絹の寝巻きを纏って、彼女は自分のためだけに微笑んでくれた。
それは、確か出会って間もない頃。瀕死の重傷を負って、彼女の元に運び込まれた。
目が覚めて真っ先に出会った翡翠の瞳は泣き濡れて、どうしてこんな大怪我をして私を心配させるのですか、私の心臓を凍らせる気ですかと、血を吐くような声音で訴えられた。
 本当は、ばらすつもりはなかったのだ。その頃、彼女がまだ自分のものではなかったから、彼女の想う男は一体どんな奴だろうと考えていたところを、後ろから刺された、などとは。あまりにも間抜けすぎて、言えないと思っていた。だがそれでも、包み隠さず事実を告げると、少女は目を見開いて息を止め、そして瞳に溜まった涙をぽろぽろと零し始めた。
 もっと早く言ってくれたら、私ももっと早く楽になれたのに……と、少女は半身を起こしていた自分に抱きついた。
少し手に力を込めれば、腕など容易く折れてしまいそうだった。
だから、慎重に……気を配りながら抱きしめた。
 甘い吐息を吸い上げながら、どうして自分を選んだのかと問うと、少女は体をなぞる自分の指から逃げながら答えた。
貴方の瞳に、捕えられました……と。
切なげに身を捩って、甘い声で自分の名を呼んで。
少女は総てを自分に捧げると……魂すら共にあることを願うと言った。
 だが、彼女のいない世界に自分だけが生きているのは、絶対に嫌だったから。彼女が消失するようなことがあれば、自分も共に魂を殺すことが出来るように。
もちろん、どうしても手放したくないという願いは自分のほうが強かったけれど。自分がいなくなった後、彼女がほかの存在に奪われるのは我慢出来なかったけれど。
自分が命を賭けて愛している少女がどこかで、生きていることを望んだ。
そんな、呪いを自らにかけた。
想いは、既に膨れ上がって収める術を知らない。
膨張する純粋な心と暴れる本能を抱えて、ただ彼女と共にいた。

 大きな瞳を興奮に染めて、少女は自分の正装した姿を手放しで褒め千切った。
それは、決して望んでいなかった天界を賭けた闘い。
火天使長として、その中で最も力を持つものとして。自分は常に威厳を保っていなければならなかったし、そうあることで何より安心できた。今はまだ彼女一人を見つめていられるが、戦が始まれば、不自由な自分の立場もあって、少女の身だけを守っているわけにはいかない。彼女を腕に抱き、愛することも出来なくなるかもしれない。それほど危険な戦だからこそ、誰からも美しいと絶賛された正装姿を彼女に見て欲しかった。ただ、その姿を褒めてくれるだけで嬉しかったのに。
少女は自分を褒め称えた後、堰を切ったように涙を溢れさせた。
貴方のいない夜は寂しいから、貴方の傍にいられないのはとてもとても辛いから。
震える声で、囁くように打ち明けられた告白。
その言葉に思わず、少女の細い体をきつく抱きしめ、放せなくなった。
思うがままに蹂躙したその身体に散る赤い痕が、予兆もなく眠りに落ちた少女の頬に残る涙の一筋が、まだ目に焼きついて、離れない。
 ……少女は可憐で、華麗だった。大輪の牡丹が朝露に濡れながら花開くように。
 その花のような少女の髪は、柔らかな栗色、瞳は極上の翡翠。肌はどこまでも白く、四肢は華奢。それは……今、手を伸ばせば届くような位置にいるケレスと、同じ色彩。まだ蕾は開いていないけれど、その輝きは同じだ。美しい透明な輝きを持つもの。……ケレスがもう二・三歳年をとったら、あんな風な艶っぽさを持つのかと思うと……漠然とした絶望に襲われもするのだが。
それも問題だな、とか何とか思ったソウルは、何かに呼ばれた気がして、目を開けた。

 「もう! 大丈夫? お風呂で寝ないでよね。ほら。茹だってるよ」
トルクに言われて、ようやく自分の状態を認識する。湯船の中で熟睡できる自分が、何だか非常に器用に思えた。
「…………あ……やば、い。逆上せた……俺、どれくらい寝てた?」
「三十分くらい。起こそうかと思ったんだけど、でも気持ちよさそうだったから」
トルクの言葉に、自分への呆れを感じながら、何だかくらくらする頭を強引にたたき起こしたソウルは、体を湯船から引き上げる。
「……ん…………じゃあ、上がるか」
「はーい」
脱衣所で髪をある程度乾かして、トルクはケレスがいるだろう食堂へ向かった。しかしソウルは、熱っぽい頭を冷ますため、途中でトルクと別れ、庭に出た。いつもケレスから『お風呂上りに寒いところへ出ては駄目』とお小言を戴いていたのだが、今夜は忘れていたことにする。
空に浮かぶ月は、もうまもなく満ちるだろう。
 ……しばらくぼんやりしていると、ふとケレスの姿が視界の端に入ってきた。慌ててその姿を探し、名前を呼ぶ。
「…………けれッ……?」
 しかし、近くには誰一人いない。ケレスのいた名残になるだろう、最近好んでつけているコロンの香りも残っていない。幻を見るほど気になるのだろうか……と少し自分が心配になった。この屋敷に来るまでは、そんなこと、知りもしなかった。
人を『特別』に思うことを。
「…………まったく」
「何ため息なんかついてるの? 身体、すごく冷たくなってる」
「?!」
かすかなため息に、間髪置かず返事があるなんて。
思わず振り返ると、ケレスが、怯えたような表情でこちらを見つめてきた。こちらの勢いに驚いたのかもしれないが、ソウルも十分驚いた。
これくらいは、まあ当然だとか何とか思いながら、ソウルはケレスに向き直る。
「……ケレス。何だいきなり。驚かせるな」
「驚いたのはこっちよ。トルクは十分も前に上がってるのにソウルはいつまでたっても来ないから。まさかと思って外見れば、ちゃっかりソウルは月を見上げてぼうっと突っ立ってるし。外出たら、湯冷めする……って、言ったじゃない。指先とか、肩とか……すごく、冷たくなってるから……早く中入って。ね?」
ゆっくりと、宥めるように響くその言葉は、実に筋が通っていて、的を射ている。
真実の前にはさすがのソウルも太刀打ちできない。ケレスに導かれるまま、袖を引かれて屋敷に引き返す。
そのままキッチンに誘導され、初夏だというのに熱いコーヒーを出された。猫舌で熱いものの苦手なソウルは、白い湯気を上げるカップを両手で包み込んだ。
「ちゃんと飲んでね? 冷める前に」
わざとか無意識かは知らないが、食器の片付けをしながら投げかけられたケレスの言葉は、ソウルには無茶な相談だ。
だからと言ってここで断れば、ケレスは『断食』に走るだろうし、かと言って痛い思いをするのも嫌だ。
コーヒーカップの中で揺れるコーヒー一杯のために三分も悩んだのは、ソウルもこれが初めてだ。結局、湯気の収まってきたコーヒーを飲み干すことで、あっさり決着してしまった。顔を上げると、カウンターをはさんで、正面に腰掛けたケレスがいる。
苦笑する彼女に、ゆっくりと両の手でカップを持つ手を包み込まれた。
柔らかな、暖かい手。
「ほら。冷たい。私の方が体温高いなんておかしいでしょ? やっぱり、湯冷めよ。風邪ひいたらどうするの? 世話は誰が見てくれるの?」
「…………あ……それは」
離れていく手のひらを目で追い、言いかけた言葉を飲み込む。ケレスです、と当然のように答えるのも何だか憚れた。思わず黙り込み、答えられなくなる。
間を埋めるように、もう一杯、とコーヒーを強請り、ケレスにカップを差し出した。指先が、触れる。
「熱いうちに飲んで。わざと熱いの入れたのに、意味がないじゃない。あ、それとも……温めてあげよっか?」
コーヒーをカップに注いだケレスは、実に機嫌よくそう言った。思わず、飲み下したコーヒーの湯気に咽る。
コーヒーカップに視線を落としていたせいで、彼女の表情を確認することは出来なかったが、きっといいことを思いついたような、悪戯っぽい笑みを浮かべていたことだろう。
「……………………」
顔を上げて、見つめる。しばし沈黙のままに彼女へ視線を注いでいると、ケレスはぼっと頬を赤らめ、何を思いついたのか狼狽し始めた。
「なっ……何よ!! ま、まさか本気にしたんじゃないでしょうね?! 冗談よ、冗談!! 本気と冗談の区別も出来なくなったの?!」
「…………俺は、昔からこうだ。だからケレスも、俺に対して冗談は言わないといつか誓っただろう。忘れたのか?」
さっと視線を天井に泳がせたところから見て、今しがた指摘されて思い出したのだろう。ケレスはうろたえて、違うの、だとかごめんなさい、だとか言いながら腕を振った。
「うっ………………! で、でも! 別にやらしーこと考えてなんかないし!!」
断じて、と念をおすケレスに、ソウルは息を吐き出す。
悪いと思いながらも、とどめを刺した。
「そんなこと考えてるのか。指摘もされてないのに自分から墓穴を掘って……」
「はうっ。そ、それわッ」
だから違うの、と訴える涙目のケレスに、ソウルは涼しい顔で暴言を吐く。
「何だったらそうしてくれてもいいが?」
その言葉に、瞳を涙に潤ませたケレスはとうとう絶叫した。
「そんなのっ……こっちからお断りよ!!」




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