Plumage Legend 〜二重の神話〜 第一章・始動
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 「……………………すまん、ケレス」
ぽつん、と思い出した様に呟いてから、ソウルは湿っぽい土の上に腰を下ろした。
屋敷を出てからまだ十分足らずだ。どうやら、坂の中盤を省いて飛び降りたらしい。
 ソウルの逃げ込む先は、大抵ここだった。ひんやりとした空気。静まり返ったその空間に時々響いてくる、鉱石を掘り出すときの鶴嘴の澄んだ音。自分の細工する金や銀の上に輝く、様々な宝玉、輝石を掘り出すその場所は、女人禁制の場所だ。第一、あの悪夢の代名詞のような女は、こんな場所には近寄らない。
 きっと今ケレスは、あの『恐怖の大王』と対決しているのだろう。自分が逃げなければそんなことにはならなかったろうが、それで何度か夕食を食べそびれたことがあった。ライトと対峙すれば、重労働をした後の今夜であろうと夕飯抜きになるのだろうと思い、ケレスの犠牲を確信して……それでも逃げた。
「……馬鹿だな」
誰が、とは言わず、ソウルは目を閉じる。
眠りに落ちるその予兆に引き込まれるように意識が沈み、やがて、懐かしい光景が甦ってきた。

 六歳まで、メルト=シティの孤児院で過ごした。親は知らない。
与えられていたのはこの『ソウル』と言う名と、もうひとつ、隠すように産着に紛れ込まされた銀細工の懐中時計だった。
親はいなかったが、ソウルはさほど自分のことを不幸だとは思わなかった。病気ひとつせず毎日をそれなりに過ごしていたソウルは、丈夫に産んでくれたことを、見た事もない親に感謝さえしていた。その頃の自分は、憎むこと、厭うことを知らなかった。すべてのことが新鮮で、珍しかった。
 元気で感受性が豊かで、運動神経も勉強に関する向上心も持ち合わせている、とよく孤児院のシスターに褒められた。年下の義弟には慕われ、年上の義兄には可愛がられた。
枯れた大地がどこまでも水を吸い込む様に、その頃のソウルは教えられたこと、聞いたこと、見たこと、調べたこと……様々な知識を吸収した。
 それが、ソウルには仇となる。
六歳になったとき、ソウルは強制的に引き取られた。
セルヴィーナ=シティに大きな屋敷を持ち、国内の輸入業のほとんどを請け負う、リファインド家の当主に。
子をもうけず妻が亡くなり、二年ほど経っていた当主は、ソウルを一人前の跡取りにするため、メルト=シティの別邸で、厳しい躾と教育を施した。
 それが悪意から生まれたものではないと、ソウルは子供心にそう知っていた。だから、逆らわず、従順に。ただただ従い、彼の思う通りの跡取りになっていった。
『感情を露にしてはいけない』
『何より、耐えること』
義父に言われた通りに。……だからソウルは、心を凍らせた。
感情を表に出さないで、隠して殺して、そして感情を出せなくなった。
感情の表し方を、忘れてしまった。
学校でも、出来るだけ人と関わらず、関わることを嫌った。
誰にも心を許さず、常に跡取りとして。
気がつけば、独りでいることに安堵さえ覚えるようになっていた。
人は、誰しも一人だ。生涯寄り添うことを誓っても、同じひとつの人間にはなれない。
今も、その通りだと思う。だが、今になってソウルは、そのときの自分が、そう思うことで、何かを諦めようとしていたような気がしていた。
 そうして暮らしていくうちに、ソウルはケレスの父、スマル=エフロートと出会った。
彼は、ソウルが孤児院から連れ出されてから、一人前の、完璧な跡取りとしてではなく、一人の子供として扱ってくれた、初めての人だった。その人柄に、惹かれた。彼のようになりたいと思った。
何より、彼の大事な愛娘として話題になった、自分より二つ年下の少女に、会ってみたくなったのだ。
言葉だけでは足りない、その人柄を知りたくなった。彼の娘。
彼女は、今の自分を変えてくれる。そんな、根拠のない確信さえ抱くほどに。
 十四歳の時、義父に断りを入れて、初めて自分の意志で彼について、アルツローネ=シティにあるという彼の屋敷に、住み込みで弟子入りさせてもらった。
この街で、あの屋敷で、彼らと共に暮らし始めて、もう四年。その間に、数え切れないほど色々な出来事を重ねた。
一線引いて接していたケレスとは、ある事をきっかけに今までが信じられないほど親密になった。孤児院で義弟たちの扱いに慣れていたからか、幼いトルクとも後をついてまわられるほど仲良くなっていた。
笑ったり、怒ったり。感情豊かな、温かい家庭の中にいれば、すぐにそんな昔の自分を取り戻せると思っていた。
なのに。
ソウルの声に、表情に、喜怒哀楽が戻ることはなかった。
優しいケレス。親切なスマル氏。無邪気なトルク。
こんないい人材に囲まれて、何故感情を表すことが出来ないのかと、一時期自己嫌悪に浸ったこともあった。だが、感情の表れない自分の苦悩を、知ることが難しいだろう内にしか現れない感情を……どうしてかケレスは……ケレスだけは感じ取ってくれた。
『自分を嫌いにならないで』と。
いつも優しく言ってくれた。
落ち込んでいるような素振りは決して見せたりしないのに、気がつくと隣で、紅茶をご馳走してくれ、そしてそっと慰めてくれる。
ただそれだけで、救われていたのだということを、彼女は知っているだろうか。
傍らに誰かがいることを、あれほど嬉しいと思ったことはなかった。
それが他の誰でもなく、彼女であるからだと気づいたのはいつからか。
 『貴方には、誇らしくいて欲しいの。大きく咲き誇るような、そんな華やかな雰囲気を纏っていて欲しいの』
繰り返される、彼女の言葉。
あれはいつだっただろうか。確信にも似た響きで語られるその言葉の理由を、問い掛けたことがあった。
『どうしてって訊かれても……ただなんとなく、そんな感じがするの。貴方はいつも、毅然としていて、自信満々で、すごく綺麗で……だから』
とても、掴み所のない、夢の内容を話すような、明確性がない不確かな口調だった。
だが、それでもいいと……それがいいと思った。
彼女の言うことなら、叶えたいと、何とはなく思ってしまった。
 だから。
前を見つめ、自分を卑下することなく。そうするうちに思い出したのは、遠い日の自身の在り方。
幼い頃ではない。それよりもっと昔の、遠い……遠い過去。
それに気付いたのはいつだっただろう。
ケレスは、何もないのに優しく微笑みかけてくれるようになった。
まるで過去を重ねるかのように、優しく、優しく……蕩けてしまいそうなほどの笑顔で。
 だがケレスは、何かと重ね合わせているように見えても、確かに自分を……『ソウル』を見てくれた。
『リファインド家の養子跡取り』ではなく、彼女の知っている『誰か』でもなく。
必ず、自分として見てくれた。
その『誰か』に、興味もあったけれど。
笑顔を浮かべる、ケレスに囚われた。
伝承の通り、自分が天界で罪を犯し、そして堕ちて来たのだとしたら、それ以前にケレスに会っていたのかもしれない。彼女に、惹かれていたかもしれない。
思い起こせば、出会った時から不思議なくらいに、ケレスを愛しいと思っていた。
 何せ、ケレスは可愛い。
例えるなら、甘く馨しい芳香を放つ白薔薇。可憐に華やかに咲く白百合。
いつも傍らにいて、ソウルを支えてくれる彼女自身の魅力を引き立てるには、それに相応しい綺麗なモノが必要で。
彼女は、ただ一緒にいるだけで、創作意欲の湧く、とてもいい題材だ。
彼女に似合う、綺麗なモノ。綺麗な、彼女。
昔も……今も。
 昔……綺麗なモノは、何でも好きだった。宝玉も衣も、人間も。だから、彼女も好きだった。いや、彼女は……他のモノへ向ける感情など比にならないほどの執着を持って、愛していた。全身全霊をかけて。
 出会った場所は、深い森の奥にある泉。今より少しだけ大人びた姿の少女。栗色の髪、翡翠の瞳、華奢な肢体。儚さと、優美さ、そこにある脆い美に、恐ろしいくらい惹きつけられた。
その瞳に縛られ、動けなかった。あの一瞬で、魅了されたのだ。
小さな花も、彼女が手折り愛でると、何よりも美しく見えた。朽ちかけた若木も、彼女が手を差し出せば、何よりも健気に見えた。
……彼女の名は、何と言っただろうか?
それは、分からない。今のままでは……『ソウル』のままでは。
意識の大部分を占める、天界での自分でなければ、それは知り得ぬこと……。
 彼女は、本当に綺麗だった。どんな姿をしていても、どんな時も、綺麗だった。
外見は元より、その、内から滲み出る輝き。
暗く澱んだ自分には持ち得ない、触れれば熱いほどの光の塊。
彼女のことを思っていると……なぜか自分の中がすっと静かになる。
水面に風がそよぐ。吹き抜けるのは、優しい薫風。
それが体全体に染み渡った時……急に意識がはっきりしてきた。
鉱山口の空気が感じられる。音もかすかに聞こえる。だが、体は動かない。
『…………ル? …………く、……介な奴。起きろって。蹴るぞ』
凶悪な物言いにソウルは反射的に起き上がった。本当に蹴られてはたまらない。何だか本気で蹴られそうな気がしたのだ。見回すそこは、見覚えのない不思議な場所。
『おお、条件反射最高。さすが』
ぼやけてはっきりしないが、声からして自分に近しい者のようだ。当然覚えはない。
「俺……じゃないな。俺より背高いし体もがっしりしてるし雰囲気が明るくて暗いし。力なんて圧倒的に違うし。ここは……」
ぶつぶつと呟いたソウルの声を聞きとったのか、誰かが言った。
『ここは俺の領域だ。今のお前にはまだ必要ない知識。……どうやってここまで潜り込んだんだか。とにかくお前はすぐに、お前のあるべき本来の場所に、帰れ……』
すっと闇の中から差し出された手が、額に触れて。その場からソウルの意識は引き離された。
絶対的な力を持つそれは、自分を現実へと戻させる。その場と、現実の境でふと覗いたのは相手の、深く蒼い、強さを秘めた瞳。絵巻で見た、世界一の蒼。
そしてソウルは、ゆっくりと目を開ける。指が引き攣るように動き、睫毛が揺れた。
蒼い双眸を、夢の余韻を楽しむように、そっと押し開く。




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