漆.想イ届ク
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 紫苑が目を開けた場所は、懐かしい海岸ではなく、見慣れた泉の淵だった。
大きな水柱が立って、佐久夜に、名を呼ばれたところまでは覚えている。
そして、その水柱の勢いが衰えるときに。
垣間見えた、氷色のうねり。
それは、いつかもこの泉にやってきた人。
夜海が席をはずした隙に、ふらりとやってきては戻った彼に追い出されていた人。
目的もはっきりしない、不思議な人。
稀湖、だった。

「……どうして、こんなところに……?」
横たえられていた体をゆっくりと起こす。念入りに体を確かめるが、怪我も痛みも見当たらない。ゆるく吹いた風が、冷たく冬の気配を知らせる。
「目が覚めたのか、紫苑」
優しく、気遣う声が背後から聞こえた。
「あなたは……」
微笑を浮かべてそこに立っていたのは、稀湖。
氷色の髪の、夜海ではない人。
彼の名を思い浮かべるだけで、胸がきりりと痛んだ。
「どこか痛いところは?」
「……ありません」
「それはよかった。それでは、はじめさせてもらうとしようかな」
にこりと、淡く微笑まれて。
紫苑が小首を傾げた瞬間、体が持ち上げられた。
勢いよくすくい上げられて、驚きのあまり声も出ない紫苑を、稀湖はそのまま、何の躊躇いもなく泉の中に投げ入れた。
「っきゃ……つめた……」
さして深くない泉とは言え、そこが水の中であることには変わりない。
単の生地が張り付く違和感に、全身に纏わりついてきた寒気に、自らの体を抱く。
「……な、何を……」
「あなたの力を、戴こうと思って」
整った顔に柔らかな微笑を浮かべたまま、彼はそう言い放った。
「あなたは私の花嫁となるのです。夜海のいない今、あなたは自由、彼のいない世界で生きているのもつらいでしょうから」
絶句した彼女の姿に微笑みかけ、稀湖がそっと腕を差し出す。
その笑顔は、透き通った水の魅力を持って、見る者を己に引き込もうとする。
 けれど、彼女は違った。
「夜海は、還ってくるわ。私との縁は切れない」
首を横に振って、否定を示す。彼は、そんなことを望まない。
頑なに拒否する紫苑に、稀湖は不思議そうな表情で首を傾げた。
「どうしてそう言い切れるのですか?彼はもう、檻に囚われて動くこともままならないというのに。一体どうやって縁を結ぶというのです?_」
「それは……」
言葉に詰まって、紫苑は考え込んだ。
縁というもの。それは、望むだけではいけないのだろうか?何か、儀式のようなものでもあるのだろうか?
そういったことに触れたことのなかった彼女には、分からなかった。
「彼を待つといっても、いつまでかかるか分からないのですよ。彼がいた頃の幸せな時間を抱いたままそれを思い起こすだけで、どれほどかかるかも分からない悠久の時を過ごすのですか?」
「えぇ」
矢継ぎ早に問いかけられる言葉に、紫苑は素直に頷いた。
彼が帰ってくると、確実に信じられるから。
「……あなたに、自分が消えてしまう事実を伝えず、一人黙って逝ってしまった彼を?」
「それはっ、夜海が、私のことを思って……」
「そう思うのはあなただけかもしれない」
「あなたは夜海じゃないわ!分かったようなことを言わないで!!」
そんなきりのない押し問答を繰り返して、紫苑の目にじわり、と浮かんできた涙を吹き飛ばしたのは、彼女の見知った風だった。
「……その通りだ。お前に何が分かる、稀湖」
掠れて聞き取りにくくはあったが、その声は、確かに。
「夜海っ……!」
おぼつかない足取りで、彼らからやや離れた位置に現れ出でた夜海の姿に、紫苑はずぶ濡れのまま駆け寄り、抱きつこうとした。しかし、触れられない。紫苑が戸惑った視線で彼を見上げる。以前のようにしっかり抱きとめてくれるはずの彼の体は、なぜか、感触のない虚像でしかなかったのだ。
「どうやってここまで……!あなたは海神の牢獄に囚われていたはず!どうしてこのことを知って……」
狼狽する稀湖に冷たい一瞥を送って、彼は音さえ立てずに身を翻した。
紫苑の両頬を手の平で包み込み、煌く瞳を覗き込む。
「夜海……?」
「時間がないんだ、紫苑……じっとしていて」
淡く微笑む夜海の表情は、影の薄い、存在感を感じられない表面だけのもの。
紫苑は怖くなって、持ち上げた手をゆるりと下ろした。
柔らかく肌を、単をなぞる力は、確かに彼のもの。体が軽くなり、彼が水の枷から開放してくれたのだと知る。
彼が、そっと彼女に視線を合わせる。
「夜海?」
「返事をする、紫苑。この命果てようとも、この世に生を受ける限り、お前とその生を共にしよう。培った記憶は綿津見に溶かさず大切に、この魂に刻み込もう。……どうか俺に、お前との縁を。お前との、永遠を……」
「やめっ……!!」
稀湖の制止は、目の前にゆるゆると降りてきた白いものに遮られた。
 それは、純白の雪。
切々と降りしきる白い雪の中、彼は、彼女の額にそっと口付けた。
感触さえない、それでも確かな縁結びの儀式。
何が起きたのか分からずに呆然と夜海を見つめている紫苑に、彼は苦笑して、頬に当てていた手を離す。
「時間切れだ。……この記憶は次に生まれるときも持ってくるからな。忘れない。次の生も、お前の元へ……」

 そうして、淡く浮かんでいただけの夜海の姿は。
雪にまぎれて、じわりと消えていった。

 「……縁を結ばれてしまったのでは、どうしようもありませんね」
積もり行く雪の中、どれほど立ち尽くしていただろうか。小さく溜め息をついた稀湖が囁いた。
縁は、誰にも邪魔されぬ強き証。
それを切り離すことは、例え神々であっても出来はしない。
結びついた彼らには、手出しできないのだ。
「本当に、これでよかったのですか?」
彼が戻ってくるまでに、彼女はどれほど遠い未来を夢見るのか。
今すぐにでもすべてを終わらせることも出来たのに、彼女は、彼を選んだ。
永遠を生きる彼らには、あまりにも短い刹那の逢瀬のために。
舞い遊ぶ白い花びらを、ゆっくりと持ち上げた手の平ですくって、彼女は微笑む。

「えぇ……もちろん。誰に不毛だと言われようとも、私は、彼を待ちます。最初から、私は彼との永遠を夢見ていたのだから……」

 景色を白く染め上げていく雪は、彼の運命を悼むようでもあり、彼らの未来を、祝福するようでもあった。美しい、何にも染まらぬ永遠の色。
それは、長い時の刹那に刻まれた、小さな約束。


  何もかもを内包しながら、時は、巡る。




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緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル