陸.祈リ通ヅル
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 そこは、海神にとって牢獄のようなものだ。
夜海はただ静かに、そこで空を眺めていた。
体から次第に力の抜けていく恐怖にもすでに慣れ、後は、それさえ知覚できなくなるように、意識が溶けるのを待つだけ。

 夜海が囚われているのは、海神の祭壇と神々の間で囁かれる自然の牢獄だ。
海と繋がる巨大な岩で出来た島の中枢部、贄となる海神は半身を潮溜まりに浸し、そこから、徐々に、徐々に力を奪われていく。
海に身を浸したが最後、削り取られていく力によって、逃げ出す術はなくなり、そして、消え行く瞬間を待つだけになるのだ。
宿る力が強ければ、それだけ意識の保たれる時間は長い。
いくつのときが過ぎたのか、数えることさえやめてしまった。
このまま記憶を溶かしてしまえれば。
……何を考えることも出来なくなるだろうのに。

 愛しい彼女に関する記憶だけが、すべてを支配していた。
出会った時。再会した時。
そしてそれから共に過ごした時間。
心地よく、穏やかな時間は、何と幸せだったのか。
思い出に浸ることだけが、今の彼の幸せだった。
笑み、泣き顔、拗ねた表情、寝顔まで、何もかもを見てきた。
そして、彼女を傷つけて。
紫苑は新しい運命に出会っただろうか。

……考えるのをやめた。
眠ってしまおう。すべてを忘れるように。


 何かに揺り動かされた。
まだ瞼を開ける力が残っていたらしく、反射のように持ち上げた。
「……精霊?」
空から吹き降りてくる強い風、そして、ざわめく水。
力を宿した精霊は、稀にこうして意思を持って動くことがある。
誰からの力を授けられたのか、夜海にはもう分からなかったが、ただ、伝わってくる意思は、はっきりと感じ取れた。
……それは、忘れることの出来ない大切な人からのものだった。

 半身に触れ、くまなく伝わってくる水からの想いに、目を細める。
彼女の名は秋のものであるのに、感じ取れるのは柔らかな、春の陽射しを髣髴とさせるもの。すでに季節は冬へ移ろうとしているにもかかわらず、気持ちは、ふわりと軽く暖かくなった。
彼女から伝わる、想い。

 それは、ひたむきに彼への想いを綴ったもの。
切ない想いが、真っ直ぐに伝わるもの。

『 例えあなたが消えようと、私の心はあなたのもの。
巡る季節の端々で、辿る大地の端々で、あなたを思い出せるから。
どれほど月日が過ぎようと、あなたが私を忘れても。
私の心は、あなた一人のものにしかならないでしょう。
こんな気持ちのままあなたではない人に触れられるのなら、あなたがそれでもいいと思うなら、
私はあなたが溶けるのを見届け、そして私も永久の命を吹き消しましょう。

どうか、私の最後のわがままを聞いて。
私に、あなたとの縁を。
あなたの来世を、私にください 』



祈るように込められた想いが、思考することさえ困難になった意識をはっきりとさせる。
愛しい彼女の想いが、朽ちかけたこの身に幸せを運ぶ。
想いは、同じ。
確かに違えることなくそこにある。
しかし……彼の体に残る力は後わずか。
彼女の元へ行くことさえ危ぶまれる状況で……あせるように頬を撫ぜ、髪を舞い上げ乱れさせた風から伝わってきた現実に、息が止まるほどの恐怖を感じた。

 紫苑が、稀湖の手元にある。

夜海には、その現実だけでよかった。
紫苑から伝えられた想いに込もる、力の残滓を吸い上げる。
そして、いまだかつて誰一人破ったことのない海神の牢獄から。

 その身を引き上げ、虚空に消えた。


 ざわめく海。
大気が緩やかに湿度を帯び、突如現れた灰色の雲に覆われゆく空が、低く、低く唸りをあげた。




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緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル