伍.想イ連ナル
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 神在の地に、彼女はいた。
例えどこを探しても、彼の姿は見当たらない。
息が出来なくなるような切なさに、胸を締めつけられ、痛みさえ感じるのは、彼の存在の喪失故なのか。
陰鬱な思いを振り払うことは出来ないが、せめて押さえつけようと紫苑は深く空気を吸い込んだ。

いつもの通り、彼女は佐久夜の後をついて回った。行く先々で、彼との思い出が甦り、出会う人誰もが彼の行く末をひそやかに囁く。
聞こえてくる言葉。
そこには、確かに大切な彼の名が囁かれていた。
紫苑にとって彼の名は、いまや悲しみを呼び起こすものでしかなかった。
そっと、前を行く佐久夜の袖をつかむ。
佐久夜が、何事かと振り向くと同時に、紫苑は悲鳴混じりの嗚咽を吐き出した。
「……教えてください、夜海は、今どこにいるのですか?!どうしているのですか?あの人は……どうなるのですか……?」
今にも泣き出してしまいそうな表情で佐久夜にすがり、その場でしゃがみこんでしまった紫苑に、佐久夜は息を吐いて手を差し伸べる。
「紫苑、元気をお出しなさい。きちんと、最後まで説明してあげるから。あなたをこんなにも悩ませる原因は、私にもあるのだから」
美しい美貌に衰えは見受けられない。しかし、その瞳は悲壮漂い、溢れるほどの苦悩を浮かべている。少女の、狂おしい切ない瞳とはまた違った、強く、深い感情。
佐久夜を見上げながら、差し出された手を握り返した紫苑に、佐久夜は無理に微笑むと、彼女の手を引いて歩き出した。


 「佐久夜様……?」
「そんな顔をしないで頂戴。私まで悲しくなるのだから。お聞きなさい」
佐久夜に手を引かれてたどり着いた先は、すべてが始まった海岸。
砂浜も、途方もないほど遠く広がる青黒い海原も。海辺の光景は、月日が経とうともさして変わりはしない。
生まれて始めて海を見たとき、あれがすべて水で出来ているのだと信じられなかった。
そんな彼女に、夜海は少しずつ、何度でも繰り返し教えてくれた。
愛しい人の笑顔が、まだ自分の内には残っている。
滲みそうになる涙を、必死でこらえた。
「夜海は、最初から言っていたのよ、期限つきでいいからって。自分が贄になる運命を避けることは出来ないのだから、その運命が自分に降りかかるまででいいと。それでいいから、あなたとともに過ごす時間がほしいって、渋る私を押し切ったのよ?でも、それを最終的に許したのは私。あなたが悲しい思いをするだろうと分かっていたのに、彼のわがままとも言えるような願いを受け入れて、今こうしてあなたを苦しめるとは、私の選択故」
風にまぎれて散り行く飛沫が、はじけていく。
いつも微笑みを絶やさない、笑顔の似合う花の女神から生まれ、そして、海へ、空へと。
「……いいえ……いいえ、佐久夜様、私は夜海と出会えたこと、少しも後悔なんてしていません。感謝しています。あの人に出会えた。私はこんなにも多くの喜びを知った……!」
頬を流れる涙を拭いもせず、紫苑は、祈るように手を組んで瞼を伏せた。
「……でも、佐久夜様、私、別れるのは嫌です。夜海が離れていくのは、いなくなってしまうのは、嫌です……!」
出会ったときから、定めなのだと知っていた。
決められずとも、誰に認められずとも、彼がそうなのだと知っていた。
お互いの気持ちなど、確認する必要がないほどに。
穏やかなようで、その陰で熱く激しく燃え上がるものを垣間見ることが出来るほどに。
それなのに。
いつまでもそばにいられると思っていたのは、彼女だけ。
彼は限りある時を精一杯自分と共に過ごしたのだ。
そしてそれを最後まで、貫き通した。
泣き言ひとつ言わず、少女の幸せを祈り、海へと還る。
そんなこと、許せるはずもない。

 紫苑の痛々しい姿は、見る者の心を突き動かす。
佐久夜はそっと彼女を抱きしめ、そして彼女はゆるりと顔を上げた。
「最後まで聞きなさい、紫苑。夜海が綿津見の贄になるのは確かだけれど、その存在は消えないの。水は永遠の象徴。夜海は蓄えた力を放出して水に溶けてしまうけれど、溶けて綿津見をたゆたいながら再び力を取り込み、いつかこの世に産み落とされる。記憶は、彼の心次第。彼がそれだけ大切にした想いなら、この海にそれを溶かさず持って生まれることもできるわ」
「それは……」
息を呑む紫苑に、佐久夜は、美しく冴えた微笑みで、ゆったりと頷く。
「えぇ。海神は綿津見より生まれ、綿津見に溶け、再び生まれ溶ける定めを繰り返す。特別ではあるけれど、海神が神であることに変わりはないのだから」
紫苑の瞳から、揺らいだ涙がこぼれた。
ぽつりと体から離れ行く水に、吹き荒れる風に想いを込める。

 どうか、あなたに。

祈り願えば、それは場所を越えてきっと通じるから。
彼が彼女と同じ想いを、今も抱いたままならば。
もし彼がすでに想いを海に溶かしていても、この想いが彼に通じれば、彼に伝わればそれでよかった。

 強い風に煽られながら、紫苑はゆっくりと自らの足で立った。
瞳は黒曜の如く煌いて、見るものを圧巻させる。
彼が再びこの世に生れ落ちるまで、たったそれだけの間。
心を決めた彼女の姿は美しく、今までとは違った強さが感じられた。
迷いを振り切ったものの輝き。
そして、強さ。
「佐久夜様、私、待ちます!新しい運命なんていりません、私には、夜海が……っきゃぁ!!」
「紫苑!」

 突然、紫苑と佐久夜の間に水柱が立った。
砂浜に、勢いよく吹き上がった水柱。
佐久夜がすぐさま力を振るう。
ゆるゆると衰え始めたその勢いに、ほっと息を吐いたもつかの間。

 そこにあるはずの紫苑の姿は、どこにもなかった。




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緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル