肆.願イ壊レル
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 浅い眠りの中で、揺らめく影は見知ったもの。
知りたいことも、心から求めるものも、全てが深い、霧の中。

 深い夜の闇に紛れて、霧がかかる。
森の奥深くは、しんと静まりその澄んだ空気を肌に伝える。
植物も動物も、全てが眠りについているだろう夜更け。
夜の帳を翻し、かすかにゆらめく、二つの影。
すらりとした細い身体が、ふわりと舞い降りた。

 「決まったようですね」
囁く声もほころぶ花のようにたおやかなその人は、そっと、彼の前に降り立った。
音も立てず、広がる裾を軽くさばいて、佐久夜は真っ直ぐに彼を見つめる。
彼女の前には、苦い表情でそっと目を伏せる、夜海の姿があった。
「……あぁ。つい先ほど、この身体から力が流れ出しているのを感じた。運命は変わらないのだなと、確かに思った」
「それが、海神として生まれたあなたの運命。致し方のないことでしょう」
はっきりとした物言いに、夜海は苦笑する。
厄介者が、彼女の大切な娘に手を出す邪魔者が、手を下さずとも消えてくれると知っていたからこそ、彼女も短い逢瀬を許したのだろう。
そうでなければ、今まで自分が無事、このときを過ごしてきた現実が信じられない。
彼女の、そこまでの思い入れが何から生まれてくるのか。
……ふと頭に浮かんだ疑問も、自分に残された時間を思えば、つまらないものでしかない。
くだらないことに限られた時間を費やすよりも、ただ、彼女と共に。
「湖の神が。叶わぬ相手に懸想していることは、知っているのか」
「……あら。海の神だけではなく、湖の神まで。本当に、あの子は水にまつわるものに絡まれることが多いようで。……気をつけないと」
針のむしろに立たせるような責め口調が、夜海の失笑を誘った。
自分の命が刻々と縮まっていく最中にも、くつくつと笑いを噛み殺している夜海の姿に、佐久夜はただ深くため息をついた。

 事態は、ますます複雑化していく。


 こんなことならば、あの名をつけるのではなかった。
けれど、小さく可憐に、儚げに咲く花は、まさにあの少女そのものだった。
薄く色づく小さな花弁も、精一杯に体を伸ばして健気に咲くさまも。
愛らしく、いとおしく、手を差し伸べずにはいられなかった。
事実、少女を抱き上げたことに、何の後悔もありはしない。
ただ、あるとすれば。
自分の選んだ、名前だけ。

 その名が持つ意味は、深く、重い。


 ゆったりと眠りの中を漂う紫苑を抱き上げたのは、大好きな人だった。
「紫苑」
名を呼ばれる、喜び。
ふわりと瞼を押し上げる。
目の前にあるのは、想像通りの深い紫紺の瞳。
聞き慣れた、低く耳に響く声。
優しい表情。
そして、星降る夜のような、漆黒の髪。
さらりと肩を滑り、流れ落ちてくる美しさ。
思わず、淡い吐息をこぼす。何度見ても、この美しさは変わらない。
……いや、今日はなぜか、ますます輝いて見えた。
美しい。
徐々に寒さの厳しくなる時期、彼の腕の温もりは何より安堵できたし、それ以外のものを想像することさえ出来なかった。
この幸せが、永遠に続くのだと微笑んだ。

 「紫苑、もうじき別れのときが来る」

 さらりと流れる風のように囁かれた言葉は、紫苑の中に残らなかった。
信じるための要素が、あまりにも少なすぎて。
どうせいつもの冗談だろうと、微笑んでいたら。

 「本当なんだ。この冬を越えたら、もう、会えない」

切なくなるような痛みを含んだ視線。
息苦しいほどの激しさを秘めた声。
その、真意をはかりかねて、紫苑は小さく、首を傾げる。
分からない。何がそうさせるのか。
何によって彼と自分が引き裂かれなければならないのか。
眼差しに不安を折り込み、そして。

「どうして、そんなことを言うの……?」

声に、震えるほどの怯えを込めて呟いた。
途端、夜海の表情が歪む。
今まで見たことのない、苦悩に満ちた、切ない痛みを耐えるような。
しばらく、逡巡した彼は、おもむろに唇を開いた。
真実を述べる決意を秘めた瞳で。


 「海神は、綿津見大神の贄なんだ。綿津見大神は、世界に存在する海そのもの。海神は、大神の力が弱まり衰えるたびに、飲み込まれ、力を吸収され、再び新たな海神として生まれる。その繰り返しなんだ。……次の贄は、俺。逃れることは叶わない。大きな世界に組み込まれた一端を担うものとして、俺は世界の理を乱すことは出来ない」

大きく目を見開いた紫苑が、はっと息を飲んだ。
彼の隠していた真実を知って。
あまりにも大きな、大き過ぎるほどの代償を背負っていた現実に。
 
「だから……だから、佐久夜も黙認していたのだよ。限りある恋なのだから、今だけは、と。俺に慈悲をくれたんだ。本来なら、お前を求めて、叶うはずのない縁を結び、こうして触れ合うことなどありはしなかったのに。お前を傷つけるだけの刹那の恋など、佐久夜が許すはずもなかったのに」

 畳み掛けるように、言葉が滑り出てくる。
全てを彼女に打ち明けることによって、自分を追いつめ、そして、別れの決意を固めるために。
目の前の紫苑が、滲ませた涙をこぼすのも、構わずに。
 彼の目的は、一つ。
彼女と、きっぱり決別することだ。
想いは、全て自分が引き取って行けばいい。
やがてそれは海に溶け、そして、大きな世界の一部となろう。
彼女が、新たにやって来る運命の人を受け入れるためにも。

「……それでも、例えこうして別れが来ようとも、俺は、出会ったことを間違っていたとは思わない。共に過ごした時間は、無駄ではないと思っているよ。俺の我がままに付き合ってくれて、ありがとう」

 抱きしめる動作一つさえ、今は怖かった。
そのまま、運命から逃れる術を、探してしまいそうで。
それでも、己に科した罪から逃れることは出来なくて。
滑らかな頬を流れる涙をそっと拭って、苦し紛れに、微笑んだ。

「さようなら、紫苑」

 ふわりと音もなく風になった夜海の、潮の香りだけが紫苑を支えていた。

 吹く風は、すでに木枯らし。
冬は、近い。




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緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル