参.想イ揺レル
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 ――寄せては返す、波の音。

 ふわり、と流れてきた風は、昼の温みを帯びたものではなく、冷め切った、冷たい風だ。それは意識した想いを抱く、この胸の内を刺し貫く。
しかし、その痛みさえも、逢える喜びには勝てない。
怖いほどの美しさを湛える、空に薄ぼんやりと浮かんだ月は、己の想いを全て見透かすように、世界を照らしてそこにあった。

 黒くうねる海原に、一人佇むは美しい人。
いつからか、大切な母替わりの女性よりもずっと近い場所にいて、いつの間にか心が追いかけ、求めてやまない人。
 波間に溶けてしまいそうな、艶めいた黒髪は海を滑る風に舞い上がる。
淡い燐光を纏って夜空を背にする光景は、一瞬の儚い夢のよう。
 もしかして、消えてしまうのではないか。
このままあの人は、風にかき消されてしまわないだろうか。
胸に湧き上がった、黒い染みのような苦悩は、その心を凍らせる。
自分であるものを、じわじわと炙られるような、恐怖。
「夜海……」
身の捩れるような切なさに、愛しい名を呪文のように囁いた。
 ばさり、と大きな音を立て、海の上という遠い場所にいる彼の単が翻った。
即座に湧き上がる壊れそうな胸の痛みは、彼のもたらす風に、癒される。
「紫苑。何を、泣くことがある」
出会って、幾度この名を呼ばれただろう。
時の流れに変化しないこの身は、いくつ季節の巡りを感じたかさえ覚えていない。
自分の中に残っているのは、大切な母である人に包まれていた頃と、独り立ちし、彼と共に過ごした時間だけ。
月日を重ね、いつからか対等に扱ってくれるようになった彼の律儀さに、場違いな苦笑がこぼれた。
「紫苑?」
訝しげな声音を安堵させるように、涙を浮かべたまま小さく微笑んだ。


 背中を温めるように抱き締められた紫苑は、今こうしている現実に、嘘のようだと吐息をこぼした。
応じる夜海は、そんな彼女を微笑みで包み込む。
「紫苑は、笑顔の方がよく似合う。憂い顔もいいが、俺が泣かせているように見えて、罪悪感を感じる」
「……最近は、どっちも夜海のせいだわ。笑うのも。……泣くのも」
「それは光栄なことだな」
低い笑い声が耳をかすり、生暖かい潮風が、頬をなぞる。
ぞくぞくするようなその感触が、彼女にとって怖いほど強烈な刺激となって、しっかりと焼きついた。
そのまま、紫苑は勢いにまかせて、囁く。

 「ねぇ、夜海。ずっと聞けなかったこと、教えて欲しいの」
「……ん?」
彼女の声は熱に浮かされ、穏やかに熱く濡れて、徐々に、夜海の神経を侵していく。
夜海にとって、逃れる術さえないほど囚われている彼女の甘い声は、猛毒でしかなかった。
理性が壊れてしまいそうで、抱いた腕を少しずつ弛めていく。
長い時を生きて様々なものを培った意味さえも、捨て去りたくなるような、途方もない感情。
囚われること、一方だけの結ばれた縁。
つながっているように見えて、完全に捉えてはいない、この不安。
自らの運命を思えば、佐久夜の言い分も、この状態も理解出来る。
納得は、出来なくとも。
「夜海は、何を隠しているの?……あの、綺麗な氷色の髪の人は、私で何をしたいの?」
そして、揺らめく夜海に投げかけられたのは、聡明な彼女らしい、的を射た質問だった。
思わず、言葉を詰まらせる。
前者の問いに関しては、今はまだ言いたくない。
まだ先は不確かで、運命の変化を望むことが出来る。
だから、言いたくなどないのだ。言霊に縛られぬように。現実にならぬように。
出来るだけ、彼女と共有できる時間が増えるように。
 後者の問いの、氷色の髪の人……稀湖のことだろう。相変わらず、紫苑の山の泉に出現することがあるらしい。紫苑が彼の名を呼ばないのはおそらく、捧げられた名が、強い強制力を持つことを教わっているからだ。
それほど重要なことを、躊躇いもなくやってのけた稀湖の思惑は、何となく察することが出来る。だからと言って、軽く打ち明けられるような内容でもない。
時が来るまでは、という佐久夜との約束も守らなければならない。
「……すまない……紫苑」
たった一言だけ。
その言葉だけで、紫苑は強張っていた表情を緩めた。
「いいの。……本当はね、まだ、聞くのは怖かったの。だって、最初にあの氷色の髪の人が来た時、夜海、すごく怖い顔をしてたのよ?だから、気になってたけど、怖かったの。あれからたくさん季節は過ぎたし、少しは成長したかなって思ったんだけど……やっぱり、まだまだなのね」

 安堵に似た笑みが、夜海の心を罪悪感から開放する。
紫苑の素直さが、先送りにするだけの現状を、肯定する。

 けれど、夜海の見上げた朧月は、淡く薄雲を被っていた。ざわりと、周囲の闇が囁くのを、感じた。




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緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル