弐.逢イ見エル
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 紫苑は、小さな山の主となった。
佐久夜から一人立ちをし、そして、力の使い方を、その制御を覚えた。
その甲斐あってか、彼女は小さな山の洞窟の奥にある、小さな祠へ入ることとなったのだ。
緑豊かな、美しい山。
紫苑は、一目でその場所を気に入った。
「素敵……なんて綺麗なのかしら。花がある……木がある、季節をこんなにも肌で感じられるなんて」
ふわふわと微笑んだ少女を、佐久夜は優しく、慈愛に満ちた笑顔で送り出した。
……やはり、夜海のことはあまりよく思っていないようだったが。

 夜海は、時折彼女の山を訪ねてくれた。
四季折々の花を愛でながら、緩やかに時を過ごす。
それは、幾度も繰り返し巡って続いた。

 その日も、夜海がやって来るはずだったのだ。
梅が終わりを告げた今、春の盛りに見事な花を咲かせる桜を見に。
けれど彼は現れず、その代わりに、別の人がやって来た。
見たこともない人。
その人は、薄い氷色の髪を背中に流した、とても美しい人だった。
吹く風には時折桜色の花びらが混じり、その人をなお、幻のように儚げに見せる。
時折煌くその薄紫の瞳は、どこか、夜海と通じるものがあって、彼女をかすかに安堵させた。
「あの、あなたは、誰?」
誰も知らないはずの、夜海との待ち合わせの場所。小さな、空からも林からも、なかなか見つけることの出来ない小さな泉。
そのほとりに座り込んでいた紫苑は、水面に映ったその人をそっと見上げた。
「私は、稀湖。この泉に見えないところで繋がる湖を守護するもの。水鏡を越えて見つめるだけではもはや耐えられれず、失礼を承知でやって来た。……どうか、あなたの名をお聞かせ願いたい」
ざわりとなびく風が、その氷色の髪を吹き上げる。
さらさらと揺れるそれは、まるで水面に浮かぶ波紋のようにしなやかで優雅で、美しい。
同じように乱された紫苑の髪が、ふわりと揺さぶられる。
名を、名乗られた。
その事実にただ、紫苑は心乱さずにはいられなかった。

 名前に宿る力は、大きい。
彼は自ら、己の名を名乗った。
誰に紹介されるでもなく、自分から進んでその名を彼女に伝えたのだ。
それは、相手に全てを委ねようともかまわないと言う意味に他ならない。
佐久夜によく言い含められたことも、その一つだった。
『みだりに自分の名を他人に教えてはいけない』
いくら佐久夜の手を離れたとは言っても、彼女の価値判断基準は依然佐久夜が持ち、彼女はそれに従うことに疑問がなかった。
紫苑はどうしようもなく、小さく顔を俯ける。
礼儀に反しているかもしれないが、佐久夜の言いつけを破ることは出来ない。
彼女の中で、戸惑いと焦りがない交ぜになり、沈黙を生む。

 ふわり、と、慣れ親しんだ風が吹いた。
紫苑は、助け舟が来たのだと表情を明るくして、満面に笑みを浮かべて素早く立ち上がる。
彼は、佐久夜の次に、大切な人。
自分を一人前にしてくれる、経験も知識も、驚くほど多い人。
やや湿った潮風。
彼女が嬉々としてそれを迎える中、稀湖はそっと美麗な眉を顰めて目を背けた。
「……遅れてすまない、紫苑」
さらさらと水面に光る波の反射のように、彼は緩やかに現れ出でて、目の前の紫苑のために、ふわりと微笑んだ。
「夜海……!こんにちは。あ、もうすぐこんばんはね」
にこりと、彼の微笑みに応じるように笑いかけた紫苑は、その笑みをやや不安げに緩めて、そっと彼の纏う桔梗色の単の袖を引いた。
そんな彼女を目に入れるより早く、夜海の視界には、あるはずのないものが映し出されていた。
「あの……」
「紫苑。名を教えたのか?」
夜海から有無を言わせぬ早さで帰ってきた言葉に、紫苑はふるふると首を振った。
「まだ。……佐久夜様が、知らない人にみだりに名を教えてはいけませんって……」
「その通りだ。偉いな、紫苑」
そっと髪を撫でられ、まさかそれほど誉められるとは思っていなかった彼女の表情がほころぶ。
まるで、降り積もる白い雪を可憐な春先の雪割草が割り入って咲くように。
夜海の身体に、ぞくりと肌寒い魅力が走った。
「……稀湖。お前、なんのつもりだ?」
夜海は沸いた抗いがたい衝動に任せ、紫苑を胸に抱き寄せながら、はっきり聞かせてもらおう、と言う。
それはさながら、幼子を譲らない、と意地を張る大人気ない我が侭のようにも見えた。
「夜海……私は恋い慕う相手の話まで、あなたに報告しなければならないのですか?」
そんな切なげな言葉にも、夜海ははっきり言い放つだけ。
感傷など、ないらしい。
「そんなことは言っていない。生まれたてを自分のいいように仕立て上げようとしているのなら、やめろと言いたいだけだ。この子は佐久夜毘亮の愛する娘。軽い気持ちで手を出すのならば、散々痛めつけられるのが落ちだ。やめておけ」
「……佐久夜毘亮の……それは、それは」
彼の本音としか思えない言葉に、稀湖は、先程とは打って変わった態度を見せた。
くつくつと昏く笑うその様は、あまりにも淫靡で、蠱惑的な魅力に満ちている。
夜海の腕に遮られ振り返ることも出来ない紫苑は、ただ夜海の腕を感じることしか出来ない。全身を、緊張が支配した。場の空気が、凍りついている。
「ますます、欲しくなるね。素晴らしい素材だ……」
「稀湖!!」
紫苑の知る限り、こうして焦りを含んで声を荒げる夜海など、滅多にありはしない。
少しも会話の意味が分からないが、どうも、自分のことに触れている、それだけは確信があった。
「おやおや……夜海、君がご執心なのは、佐久夜毘亮は存じて?」
「あぁ。知っているとも」
頷いた夜海に、稀湖はやはり笑った。
「それならば、ますますのこと。きっと、彼女も知らないのだろうしね」
君の、抱く真実など……
囁かれた声が耳に届いたのは、夜海だけだった。
風が通り過ぎる。
それに身を任せたのだろう、稀湖の体はゆるゆると溶け、そして、ばしゃん、という大きな水音と共に、消えた。
突如響いた水音にびくりと体を震わせて、少女は緩々と顔を上げた。
なんと、心細げな、不安に満ちた表情か。
 この淋しそうな視線を喜びに染めることが出来るなら。
夜海は、動揺も焦りも押し殺して、人の感情に敏感な彼女が安心するよう、そっと、微笑んだ。
風上から吹き下りる桜の薄紅色の花びらは、すでに夜の闇に紛れ、白く浮き上がっているように見えた。
艶やかなその色は、まるで過去の亡霊が浮かび上がるかのように。
 白く、ただ、白く。




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緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル