壱.再ビ逢ウ
<< text index story top >>



 囚われた魂は、逃げることも消えることも出来なかった。
佐久夜に強請り、連れて来られたそこは、夜の海。
夜の海……あの人の名前。何と美しいのだろう。
 今でこそこうして海の限りない雄大さに吐息を漏らすが、最初、青みがかった黒いそれが水だと、彼女は気づかなかった。
砂原の向こうに波打つそれは、丈の高い草原が強い風に煽られ、優雅になびく様によく似ていたし、彼女の見たことのある水は、空から降りしきる雨か、山の中を下っていく小さな透明のせせらぎくらいだった。
あんなにも、深く暗い永劫を予感させる美しさを秘めて、空と交じり合うような遠くまで続いている水の集まりなど、見たこともなかったのだ。
佐久夜から聞いた話によると、この『海』というものはどこまでも繋がっているらしい。
それは、最も近くにある海であろうとも、どことも知れないあの人の守る場所まで繋がっているということだ。

 紫苑には、再び彼にまみえたいという想いも、それ以上のことを求める意志も、その頃はまだ持ち合わせていなかった。
 紫苑は、胸の中に抱いた出会いの際感じた強い想いを、知らず知らずの内に奥底へとひそかに封印してしまっていたのだ。
 いつ会えるとも、どこにいるとも知れないような相手だ。
出会ったときの佐久夜の言葉から読み取れた感情は、あまりいいものとは言えない。
佐久夜が全てで、自分で自分の力を今だ使いこなせない彼女は、すべての判断基準を佐久夜の一挙一動に委ねられていた。

 「紫苑」
甘い優しい声音。聞き違えることなどありもしない、至上の声。
彼女は、ただ見つめるだけの海から視線をはずし、振り向いた先にいる女性へと駆け出す。
「佐久夜様!」
飛びついてその腕に抱き締められると、春の花の馨しい香り。
顔を上げれば、どこか困惑気味の、けれど美しい顔貌が目に入る。
「紫苑。……私は、会わせたいわけではないのだけれど」
渋々といった口調の佐久夜に、紫苑はかすかに首を傾げた。
 彼女が言葉を続けるのを躊躇っているうちに、後ろから……波打ち際から、ざり、と砂を踏みにじる音が聞こえた。
「前置きはいい」
 低く、そしてひどく穏やかな声が、耳に入った。
瞬間、全身の産毛が逆立ち、意識を揺さ振って捩れた。
溢れ出すような感触に恐ろしくなって、紫苑は佐久夜の腕に縋りついた。
全身を荒らし回るその想いが、一体何なのか彼女は知らない。
ただ、得体の知れないこの想いを、今まで一度も……いや、胸の奥に眠らせたまま、忘れ去っていた時間が長すぎて……どう処理していいのか、分からなかったのだ。
 振り返ることにさえ、怯えている。
それでも、全身を支配する誘惑には勝てず、ゆっくりと、制御のきかない身体を捻る。

 彼女は、再び運命に出会った。


 漆黒の髪は、長く艶やかに風を泳ぎ、夜の海をそのまま閉じ込めたような瞳は、どこか荒々しい。
縹の単は、夜の闇に溶け込むかのように深く、けれどその肌は、ぼんやりと明かりのように浮かび上がって白い。
……この千千に乱れる熱い想いは、一体どこに隠れていたと言うのだろう。
全身を暴れる、内側から身体を破って飛び出してしまいそうな荒れ狂う感情の波に、じわりと涙が浮かぶ。
「……紫苑」
 そうだ。
この声が自分を呼んでくれるのを、ずっと待っていた。
捕まっていた佐久夜の腕から抜け出して、彼女は身を翻した。
思うままに、その人の元へと飛び込む。
受け止めてもらえないかもしれないなどと言う危機感は一切なかった。
事実、彼は再会した彼女を、壊れ物を扱うかのように優しく、そっと抱きとめたのだ。
 唐突に紫苑を支配した感情は、そのまま染み渡り彼女の一部となり、再び時を刻み始めた。


 彼女が一人歩きを始めたのは、この日からだった。

 「夜海!ねぇ、ほら!!」
「そんなに急がなくとも、花は逃げないぞ」
「花が逃げるからじゃなくて、夜海に早く見てほしいの!」
ゆっくりと獣道を登る、一組の男女が見えた。
元気が身体中から溢れ出しているような快活な少女に、落ち着いた雰囲気を持つ立派な男性だ。
自分の大きな身体をを引きずるようにして山道を上る少女に、彼は苦笑した。
「……紫苑」
「へ?」
「……今日も可愛いな」
にこにこ笑いながらさらりと告げられた言葉に、紫苑は一瞬呆けて目を瞬いたが、ゆっくりと言葉の意味を噛み砕くと、じわじわ赤くなりながらくらりと仰向けに倒れた。
夜海は、それをすぐさま支えて、再び笑いかける。
秋の紅葉にも似た赤い頬を、これ以上はないほどに熱くさせて、紫苑は彼の腕から逃げ出す。

 ……穏やかな時間の中、彼女に根づいた運命は、今だ転がり続けている。

 二人して目を向けた森の枝葉の向こう、山道を上り切った先に、見事な枝振りの梅が、淑やかな香りと共に咲き零れる姿が具間見えた。




<< text index story top >>
緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル