零.巡リ逢ウ
<< text index story top >>



 生まれ落ちた瞬間を、紫苑は知らない。
自分たちはそういった『モノ』なのだと、佐久夜から教わった。
けれど紫苑は、記憶の最初から、ずっとそばにいる佐久夜が至上の者だと信じていたし、彼女の中にその言葉を疑う理由はどこにも無かった。
 気がつけば、すでに佐久夜に護られ、眷属や季節の姫たちに親しまれ、その愛情をたっぷりと受けて過ごしていた。
人間が抱く『親子』の情が生まれるわけではなかったが、それでも紫苑にとって佐久夜は、何よりも信頼できる、彼女の世界で最も美しい人だった。


 紫苑は、佐久夜に許される限り、どこにでもついて行った。
出雲もその一つだ。
八百万の神々が一堂に会するこの季節は、彼女と名を同じくする可憐な花が咲き乱れ、赤や黄色の、彼女の生まれ故郷の山々に似た華やかさ、月の光のきらめきなど、来たる次の凍れる白の季節を紛らわせるよう、様々な美を抱く。
それらに誘われて、生まれて間もない彼女が佐久夜の元から抜け出すのも、当然と言えば、当然かもしれない。
 風にそよぐ薄野原、野の小道に咲く彼岸花、女郎花、野菊。
ふわふわと浮ついた足取りでその空気を楽しむ。
そして。
 紫苑は、今まで見たことのない世界を知った。


 一面に広がる、砂原。
草の一本も生えないその広い場所は、ただ静かに、不思議な音色を奏でていた。
ざわり、さわりと耳に響く心地よい音色は、胸の鼓動とよく似ていて、佐久夜に抱かれている時を思い出させる。
砂浜の向こうに広がっているのは、今までに見たことのない光景。
空とは違う、黒みがかった青。……いや、青みがかった、黒。
生き物のようにうねりながら、それは時折白の飛沫を上げる。
どこまでも、それが続いて。
遠い遠い空と大地の境目は、解け合ってその区別を阻んでいた。
……まるで、夢のような光景。想像力など追いつくはずもない圧倒的な姿。
息をすることも出来ずに、ただ、呆然と立ちすくむことしか出来ない。
彼女は、知らなかった世界の大きさにいつしか飲み込まれていた。

 どれほど、そこに立っていただろう。
紫苑の視界に、動くものが映った。
それは、今までのように白い飛沫ではなく、風の流れでもなく……意思を持った、人の形をしていた。
はっとして目を瞬く。
思い出したように息が再び甦り、目は先ほど視界が捕らえたものを探す。
左右に振った首が、すぐさま止まる。
 見事な黒髪が、風に弄られて煽られていた。
もう、それ以外何も見えなかった。
優雅に揺れる黒い髪の一筋、濃紺の単の裾がばさりと揺れ、けれどその身体は少しも動じない。
 目の前に広がる、得体の知れない大きな世界に、これほど似合う人はいないだろうと思わせるほどの堂々とした美しさ、貫禄、そして風景との同化。
そこにあるのが当然だと思わせるような、完成された世界。
それを乱すことは、神の一端に属する自分にも許されない行為だと、それは教わらずとも理解出来る根底に染み込んだもの。
 何より、目の前の光景が自分の手によって壊れてしまうのは、怖かった。

 山とは違う、湿った匂いに塩を混ぜたような、不思議な風の匂い。
それに包み込まれて、ただ立ち尽していた紫苑の意識を緩やかに目覚めさせたのは、微かな華の香。ふわりと溶けるように混じったその馨りは、気のせいではない。
「紫苑」
聞き慣れた甘やかな声音が、彼女の自我をはっきりと呼び戻した。
「佐久夜様……」
「本当にあなたは、どこなりと飛んで行ってしまうのね。……次からは、一言言ってお行きなさい」
美しい花の女神が微笑めば、そこは彼女のよく知った場所となる。
今は咲いてもいない、ほのかな桜の香りが肺を満たした。
 落ち着かない不安な自分を確固たるものにするために、紫苑は手を伸ばして、その胸に飛び込もうとした。けれど、その瞬間計らずとも佐久夜の肩越しに目に入ったものに。

 魂ごと全ての自由を奪い取られた。

 振り向いてこちらを真っ直ぐに見つめるのは、何もかもを飲み込むような、深淵を宿す瞳。
深く、遠く、限りのない闇を滑り落ちて行くような感触。
その後ろに広がる、広大な夜色の空間をそのまま切り取ったような、限界のない色。
 ……なんと、美しいのだろう。
なんと清らかなのだろう。
彼女は佐久夜の腕に包まれたまま、ただじっと、そこにいるものを見つめていた。


 「夜海?」
暗い空に響いたのは、佐久夜の声。
美しい響きには、疑問の意が込められ、紫苑が顔を上げれば、信頼するその人は今までにない真剣な瞳で、不思議な人を見つめ返していた。
「……海神の夜海。私の愛しい紫苑に、何をしたのです?……まさか、結ばれた縁が見えるなどと、見え透いた嘘はよもや言いますまい」
きりりと引き絞られた弓のような、凛とした美しさ。
けれどその言葉に、抗議の意思は読み取れない。
「佐久夜様……私」
不安げに大切な人の名を呼ぶ彼女の言葉を遮って、佐久夜は紅の唇を震わせる。
「もし、この子に縁の運命が結ばれていたとしたら。……責任は、取って頂くわよ?紫苑は、私と四季の姫たちが、心から愛し慈しんできた大切な娘なのだから」
噛み締めるように囁かれる言葉が、風に吹き晒されて消えた。

 それが届いたのか届かなかったのか……立ち尽くす海神は、微かに唇を動かして、彼女をしっかりと見据えて、確かに言ったのだ。


 『紫苑』と。




<< text index story top >>
緋赫ト 紫紺ノ 焔ハ 刹那ニ 燃ユル