恋愛予行演習 4
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 目を開けると、見慣れた天井があった。
泣き腫らして、そのまま泣きすぎて熱を出して訳の分からない症状で1週間寝込んだ。
私があの人と出かけたってみんなが知ってる日に、一度もご飯にも出ずに電話やメールやノックの音にも応じなかったこと。
次の日誰かが寮母さんを呼んで、ドア口に顔を出した途端問答無用で医務室に連れて行かれたこと。
それからしばらく意識がなかったこと。
ようやく目が覚めたのに、気持ち悪くて何も食べられなかったこと。
みんなが、何か聞きたそうな顔でやってきたけれど、何も話せなかったこと。
 全部忘れるって決めたのに、身体にも気持ちにもしつこく居座るあの人が憎らしくなった。解放してよ。あの人はもう私なんか要らないんだから。
そうやって自分に言い聞かせてあげると、少し楽になった。
何もなかった。楽しいこともつらいことも何にも。
点滴の細い管が繋がる腕に意識を集中して、頭を空っぽにして寝た。

 気がついたら、友達が立ってた。どうしてそんなに怒ってるの。きつい目線で睨まれて、それでも表情を変えるのさえ面倒で、ゆっくりとそのまま目をそらした。
理由を聞きたくても喉がひび割れて声は出なかった。点滴のチューブはいつの間にかはずされていた。
「あのね、あんな形であんたとあの人会わせたのは悪かったと思ってる。でも、忘れちゃ駄目でしょ。せっかくの美男子なんだもん。ホントに嫌われたのか、ホントに嫌いになっちゃったのか、ホントに忘れちゃっていいのか、ちゃんと読んでから選んだほうがいいよ。後悔、もうしたくないでしょ?」
何のことだか、ちっとも分からなかった。
忘れてもいい。いいのよ?
選ぶ必要なんて、ない。
「読んで。暇でしょ?退屈しのぎよ。あと、面白いもの発掘したからこれも。コピーだけど」
首を振った私に、強引に手渡されたのは一冊のハードカバー。ただ真っ白なだけの表紙。タイトルも何もなし。紙の素材が手に心地いい。もうひとつは、ぱちんとホッチキスで留められただけのコピー用紙。ワープロ打ちの文字がたくさん並んでいた。
「それじゃ、思い出したら私呼んで。連絡先知ってるから」
授業行って来るよ、って行ってしまった友達の後姿をぼんやり見ながら、手の中の本を握る指に、力がこもった。
読んで、って言うのは、多分強制。理由は分からないけど、読まなきゃいけない気がした。
そっと白い表紙を開く。目次には、幾つかのタイトルが並んでいた。日付と、時間。でもその並びはばらばらで、時間軸どおりに話は進んでないみたい。
でも、こういう並びになってるからには、何か意味があるんだろう。
目次もめくると最初に出てきた章、一番新しい日付のそれを、私はゆっくりと読み始めた。

 内容は、いろんな意味で複雑だった。
主人公の男の人の、日記形式で綴られるこのお話の時間軸が最初から並んでない、ずれてるっていうのもあるし、この男の人の性格というか、言葉が、あの人によく似ていたっていうのもある。主題は多分、恋愛感情の醜さとか複雑さとか、苦しさとか。
それはすでに死を前にした書き手の、大切な人への告白文のように感じた。
言いたいことを言えないもどかしさ、駆け引きで相手の気持ちを確かめてしまう自分の汚い打算、相手への気遣いを無視して自分の利益へと走る醜い姿。
そんな風に自虐的に綴られた包み隠すことのない本心の告白。
一通りに目を通して、もう一度時間軸にそって読んでみようと目次を開いたら、膝の上にあったコピー用紙の綴りがばらばらと落ちた。
そういえば、これもあった。ひとまずハードカバーを脇に置いて、コピー用紙を拾い上げる。何気なく読み進めた第一行に、目を疑う。
そのまま、一気に世界に引き込まれた。
それは、私も出会った世界。
遊園地と、白い羽と血痕、天からの使者っていう、香水を絡めたお話だった……。

 こんこん、と一応ドアをノックする。玄関は開いていた。奥の方から、小さな返事代わりのうなり声と、キーボードを打つ硬い音が聞こえる。
入る前に、まず深呼吸をして、これからの戦闘に備える。ただでさえ何も食べてなくてふらふらするのに、こんなところで弱い顔なんて見せられない。頑張らなきゃ。
ゆっくりと、ドアを開く。
その人はまだ顔を上げない。
時間にして、大体2日。たったそれだけの時間を共有しただけなのに、こんなにも懐かしく感じる。
本棚に並ぶのは、医学書と薬学書と、他にもたくさん、美術書、各国語の辞書、文化や文明の資料が所狭しと。大きいだろう書斎机の上にも、山になった写真集と紙の束。大き目の薄型ディスプレイは、近づく私を隠してくれている。
栗色の髪、いつもはコンタクトなのかもしれない、今は銀縁の眼鏡でパソコンに向かっている。視線は真剣そのもので、時折傍らに開いた本を確認しながら再びディスプレイに目をやる。
多分、深雪さんだと思ってるんだろう。声も出さない侵入者に、その人はようやく顔を上げた。
「馬鹿!」
「っ……な、んで、咲姫が、こんなところに?今はまだ、授業中じゃないのか?……深雪なら、こっちじゃない。向こうだ」
荒げようとした声を飲み込んで、透次さんは顔を背けた。
分かってない。この人は、まだ私の言いに来たことを。
「あのねぇ、どうしてあんたに会いに来たのに深雪さんを探さなきゃならないのよ!深雪さんにも会いたいけど、今日の本命はあんたなの。喧嘩売りに来たわ」
そこまで一息に言って、すでにぜいぜい呼吸が荒くなってるのはまずい気がするけど、それとこれとは話が別だ。言ってしまわなければ気がすまない。
「は?……俺に会いに来た?」
「私は、あんたが嫌いなんじゃないの。あんたが大人で、私の気持ちなんて知りませんって顔で笑いかけてくるから。私のこと子供扱いするから。だから、嫌だったの。そんな風にしないで、ちゃんとあんたの気持ち聞きたかったの。我慢しないでよ。私だって大人になれるんだからね!」
そして、私はトートバックに放り込んできた白のハードカバーを取り出した。
「こんなに鬱憤溜めてんならさっさと私に吐き出せばよかったじゃない!深雪さんに洗いざらい話してすっきりするんじゃなくて、私に!!」
……とりあえず言いたいことを言い切って、私は肩で息をした。
苦しい。
でも、ちゃんと答え聞かなきゃ。
「あー……でもまだばれてはないんだな?」
「へ?」
切り返された言葉に、首を傾げる。透次さんの視線は、鋭い。
「お前気づいてないみたいだけど、俺は深雪に頭ん中吐き出すほど恥知らずじゃないよ。ついでに、それで全部だと思ったら大間違いだ。自主規制した男の欲望何なら吐き出してやろうか?お前に」
がたん、と乱暴に椅子から立ち上がった透次さんが、かけていた眼鏡を外した。
「え、と、あ、いや、その」
その、その視線はなんていうか、多分、世間一般に悩殺流し目とか言いませんか。
「そんな風に言ってくれんのなら嬉しいね、溜めてるんでどうにかしてもらおうか?……咲姫の身体で」
ひー!
「あ、うわ、ちょ、待って待って何でそうなるわけ透次さんっ!!」
ようやく言葉の意味にはっとして、私は必死に後ずさりした。
すたすたすたと近づいてきて、その目は余裕たっぷりのいつもの透次さんじゃなくて、切羽詰ったよく分からない色に染まっていて。
「俺は所詮一目惚れで、大人ぶってないと嬉しくて仕方なくてどうなるか分からなかったんだよ。……こんなガキみたいに欲しくなったの、初めて」
背中にべたんって壁の感触を感じたときには、すでに遅し。目の前に透次さんの着てるベージュのVネックのセーターがあった。あ、鎖骨綺麗だ。
……そんな場違いなことを考えたせいかそれ以前の問題だったのか……がしっと問答無用で抱き締められて、もう、どうにもならなかった。
降参、するしかなかった。




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