恋愛予行演習 3
<< text index BBS >>



 「ちょっと、ねぇ、何これ?!」
「いや、俺に言われても……って揺さぶるなー!」
目が回るだろ、って普通の口調で私の手を襟首から引き剥がした透次さんは、むっと唇を曲げて、吐き出すように息をついた。
「やな臭い。……香水だよな?これって」
鼻をコートの袖で覆って、ホントに嫌そうな、眉を顰めた表情が覗く。
「……そんな、変な匂いかな?これ、ナイトメアの一番売れてる奴でしょ?#8番……『天からの使者』?私これ好きなんだー」
「……図太い神経だな。この光景目の前にして」
溜め息をつく透次さんは無視。だって好きなものは好きなんだもん。
あ、ナイトメアって言うのは、今かなり人気の香水専門メーカーの名前で、オリジナル香水のほかにも、その人のためだけにブレンドするオートクチュールもしてて、私たちの学校でひそかにブームを呼んでいる。……金持ち学校の生徒らしいブームよね。
私はつけないけど。香水つけるの、苦手だから。
「何か、意味でもあるのかなぁ?血の痕、白い羽……」
「お誂え向きに『天からの使者』ってか……ま、深雪の小説に汚染されてるんじゃ何か事件に巻き込まれたんじゃねぇかと思うよな」
はーやれやれって表情で髪をぐしゃっと乱した透次さんに、首を傾げて見せる。
「……駄目?」
「いや?俺はかまわねぇよ。どうせ、俺はあいつの歩くネタ帳だし。よくわかんねぇ怪奇現象が発生したからには、ネタ帳としての役割を果たしてやらねぇと。お前も、気になるんだろ?このよくわかんねぇキーワードが、いったいどういう意味なのか」
「うん。……でも、私あんまりホラーとかスプラッタとか好きじゃない」
「……はぁ?深雪の小説読むくせに?」
「ホラーが嫌いでも読めちゃう作品を書いちゃうすごい作家さんなの、深雪さんは!!だから好きなの、学校サボって握手会行っちゃうほど好きなの!」
力説して満足した私は、腰に手を当ててふんぞり返る。いくら身内だからって、深雪さんにあんな偉そうな態度とるなんて、一ファンとして許せないんだから。
でも、いつもならすぐに反論しそうな透次さんが、ちっとも声さえ発しなくて、そろーっと様子を伺ってみる。
……あれ?
「透次さん?ねー、何で真っ赤なの?ねぇ、何で?」
「うるせぇ。なんでもない」
手で口元覆って表情を隠そうとしてるけど、真っ赤な頬と焦ったみたいな視線の動きは、近づいて少し屈めば丸見え。なんだかよくわらかないけど、からかい時だって思った。
「ねぇねぇねぇ」
「あぁもう!!行くぞ!血の痕、こっちに続いてるもんな!」
にやーって笑いながら透次さんを覗き込んでたら、煮詰まった透次さんに手をつかまれて、ずるっと引き摺られた。
「わぁ!」
「しっかりついて来いよ!これでも俺は、あいつのネタ帳なんだ。あいつの話の元は、全部俺がかき集めてきたもんなんだぞ!徹底的にやるからな!」
あわてて足を体に追いつかせる。
引きずられるように走りながら、私の頭からは、白い羽と血痕じゃなくて、さっきの透次さんの子供っぽい表情が離れなかった。

 「さて。腹減ったなー」
「え?!調査は!」
「後で。腹減ったもん」
確かに、朝開園時間と同時に入って、その足であんなの見つけちゃって、それからずーっと園内を駆けずり回ってるのにちっとも成果はないけど!
……ついでに私もお腹すいたけど。
「気持ち悪いとか散々言ってたくせに、食べられるの?」
「腹減ったらそんなもんは忘れる。栄養補給は、ネタや続きよりずっと大事だ。うん。……俺にとっては」
腕組みでなんか感慨深げに頷く透次さんは、かなり胡散臭かった。
なんか、丸め込まれてるような気がするんだけど……。
「何食いたい?奢ってやるよ」
ちゃんと目を見て、視線を合わせて言ってくれる透次さんを、ぼんやり見つめ返す。
この人は子供みたいだけど、ちゃんと大人なんだなって。
バイトしてる姿はちっとも想像つかないけど、この人はきっと、自分でちゃんと働いて貯めたお金を持ってるんだろうなぁっていうのが分かった。
……私たちみたいに、親から送られてくるお金を自分のものでもないのに湯水のように無駄遣いする人じゃないんだ。羨ましいと、思った。
「……大学生はすごいなぁ。そんな風にさらっと言えちゃうんだもん。自分で稼いだお金じゃないと、そんな風には言えないよね」
「まぁ、な。親からもらってる金じゃないのは確かだ……俺も予想外だったが」
一瞬びっくりしたように目を見張った透次さんが、すぐに目元を緩めて微笑んだ。
深雪さんのあったかい笑顔によく似た、あぁ、血が繋がってるんだな、って分かる笑い方。それが自分に向けられているのは、なんて言葉にすればいいのか分からないくらい嬉しくって……どきどきした。
「けど、お前だって無駄遣いはしてないだろう?永林ってバイト禁止じゃなかったか?最低限の金を親からもらうのは罪じゃない。いい子いい子」
今度は、私がびっくりする番だった。
永林学園は、全寮制のエスカレーター式。しかも金持ちの子息女学校だから生徒の出入りも少ない。学校の校則知ってる人なんて、通ってた人かその家族くらいしか知らないはずなのに。
疑問と、色々な気持ちが入り混じってる。
ほめられてるのか、それとも、私はまだ子供だよって、そう言いたいのだろうか。
……大人と、子供の大きな違い。いくら近づいた気がしてもすぐ突き放されてしまう広い溝。すぐそばにあるはずの笑顔が、遠い。
「もうっ!からかって遊ばないでよっ大学生の余裕?!」
急に沸いてきたのは、大きな不安。
置いていかれるんじゃないか、追いつけないんじゃないか……どうして追いつきたいのかとかちっとも分からないけど、それでも距離が開くのは、嫌だ。
混乱して、どうすればいいか分からなくて、目の前にいる透次さんに食って掛かる。
「……俺はお前が思ってるほど大人じゃないぞ?」
 冗談めかした空気が一気に払拭されて、そこに残ったのは、深雪さんとよく似た笑顔。
似ているけれど、違う瞳。深雪さんの穏やかさとはまったく違う、とても……とても、激しい瞳。ぽつりと呟かれた言葉同様、その視線は、置いていかれた子供みたいな、取り残されたような。
「あ、の……透次さん?」
びっくりして、そっと手を伸ばして、触れる手前で、遮られた。
「え?」
「引っかかったな?あんまり無闇やたらと男に触ろうとするなよー?それ、そのうち命取りになるぞ」
苦笑した透次さんは、さっきまでの空気なんて忘れたみたいに背中を伸ばして、真っ直ぐに。綺麗。綺麗だけど……さっきのは、何?
「……やっぱりからかったんじゃない!」
後から後から沸いてきそうなイライラが、空腹を越えた瞬間だった。

 「もう、やだ!!なんかよくわかんないけどこんなのやだ!私は、駆け引き楽しめるほど大人じゃない!あんなの、冗談だって流したり出来ない、切り替えも出来ない!そんなの、大学にいっぱいいる大人の女の人と楽しんでよ!私は、透次さんに振り回されてばっかりで、ちっとも楽しくない。透次さんが楽しいって言っても、私はこんな中途半端なの楽しめない。楽しくなんてないよ……」
尻すぼみになった言葉を、目を合わせないように俯いて強引に搾り出した。
全部吐き出した胸の中を整理する。
透次さんに中途半端な会話されるのは嫌。
もっと、純粋に楽しみたい。そんな、頭を使う会話は嫌。
もっと、一緒に楽しみたい。一緒に楽しんで欲しい。
 うん。これでいい。
胸の鼓動を落ち着けて、ゆっくり顔を上げる。
透次さんは、さっきと同じようにそこに立ってた。
真っ直ぐの視線を、私に向けたまま。
とたんに私は不安になる。何も言ってくれない。せっかく整理した言葉がぼろぼろと風化して壊れていく。いつも会話を絶やしたことなんてないのに。走り回ってる間もずっと喋ってた。……ただそれだけのことに、あんなに安堵してたんだって気づいたのは、そのときだった。
「……そうだな。年齢差って、なかなか埋められるもんじゃねぇもんな」
呟いた透次さんは、私から目をそらした。
「とりあえず飯食おう。食ったら送ってく。あぁ……けど、一緒にいて楽しくないなら、飯も止めておくか?」
「へ……?」
いや、あの、ちょっと。
なんか、違う。
「どうする?お前の好きにしていいよ」
視線の噛み合わない笑顔が、向けられてる。意識的に避けられてるんだって、分かった。
 ……言わなければよかった。
そう後悔したって、もう遅くって。
気がついたときには、何もかもが終わっていた。
 寮の自室で、まだ明るい午後の日差しが入るベランダの前に座り込む。
思い出せない。
あのあとの時間も場所も、記憶も全部。
透次さんから聞いた、好きにしていいよって言葉と、避けられた笑顔が張りついて離れない。今まで何を言ってもちっとも応えなかった透次さんの、痛い視線。
 傷つけた。取り返しのつかないことをした。
どうしようもなくなってから、やっと分かる。
どうしようもなくなってから。
……自分の中に小さく固まりかけていた気持ちは、すぐさま自分の手で粉々にした。
忘れなくちゃ。
忘れなくちゃ忘れなくちゃ。
あの人を傷つけたのは、私。あの人にあんなことを言わせたのは私。
そんな私は……あの人とは釣り合わない、こんなにも馬鹿な子供だから。




<< text index BBS >>
恋愛予行演習 3