走馬灯 4.緊急事態
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 「ふーん……案外綺麗にしてるのね」
玄関を入ってすぐのキッチンは、小奇麗に片付けられていたし、コンロにかけられたままのやかんや、シンクの中には水を湛えた鍋がある。ゴミ箱に捨てられているのは、きちんと自炊しているのだろう、野菜のビニールや、肉か魚の乗っている発泡トレイ。
「ちゃんと作ってるんだ……でも、分別はしなきゃ駄目でしょうが」
苦笑しながら、奥にある部屋を見やる。
どこにでもあるワンルームのアパートだが、ここはどうやらフローリングらしい。
外観のみすぼらしさを考えると、内装は驚くほど新しい。
さて、それじゃあお部屋拝見ー、と部屋に一歩踏み込んだ、その瞬間。
「来るな!!そ、それ以上近づいたら、さ、刺すぞ!!」
「へ?」
目の前には、震える手でサバイバルナイフを構えた一人の男。
毛糸の帽子に地味な黒の革ジャン、ビンテージと言えば聞こえはいいが、どう見てもただの履き古したジーンズ。足にはしっかり、履き潰したスニーカーがある。
慎吾の部屋にいたいかにも怪しいその男を上から下まで眺めた茅沙は、思わず口を開いた。
「……ちょっ、ちょっとあんた、人様の家に土足で入るってどういう了見よ?!」
男が眉を顰めた茅沙に言われたのは、そんなことだった。
「は?」
ナイフを突きつけて叫んだ自分の言葉など聞こえなかったかのように、あっさり無視されて逆に叱られるなど思ってもみなかった男は、間抜けな声を出した。
「いくらぼろアパートの今すぐにでも踏み抜けそうな階段をちょっとどきどきしながら上ってきたからって、それと土足で部屋に上がるのは関係ないでしょうが!」
畳み掛けるように言葉を投げかけ、その勢いでずんずんと男に近づく。
「……いや、あの……誰が関係あるなんて言ったんでしょうか?」
美少女に壁際までじりじりと追い詰められて、男は情けない声を出し、思わず敬語を使いながらナイフを持ったまま両手を上げた。茅沙は調子付いて、片手を腰に当てて、男をきつくねめつける。
「ほら、そんなことどうでもいいから、さっさと靴脱ぎなさい!ナイフなんて振り回してる場合じゃな……」
男にびしりと指を突きつけて、彼女はその姿勢で固まった。
改めて、目の前で両手を上げている男を上から下までじっくり見つめる。
慎吾の家の鍵が開いていて、そこには質素な服装に、土足で入り込んだ怪しい男がいて、自分に向かってナイフを突きつけて脅した。
そう、ナイフを……。
「ぇえぇぇぇえぇっ?!な……ナイフぅ?!」
「分かってなかったのかよ!!」
茅沙の絶叫に、男は思わずナイフを握っていない左手で、キレのいい裏手突っ込みを入れた。
「あっ、改めて言う!!来るな!刺すぞっ!!」
部屋の隅に追いやられていた男は、小走りに別の隅まで走ると茅沙からある程度の距離を置いて、再びお決まりの脅し文句を吐いた。
「……刺す、ったって……」
さっき自分と体当たりの漫才をこなしたほどの男なだけに、茅沙には彼が恐怖の対象だとは思えなかった。
「えーっと……こういうときは……」
例えば今日見た映画なんかでは、どうしていただろうか。
何度か見たことのある例のカンフー映画を思い出す。
刃物を持った敵と対峙した場合。この部屋は狭く、男との距離は自分の歩幅に直しても約3歩か4歩。男の手には刃渡りの短いサバイバルナイフが握られているが、あまりこういったことに慣れていなさそう。そうであれば。

 ……まずは相手の意表をつき。
「あっサイレンの音だ!!」
「なにぃぃぃぃっ?!」
……そして、とりあえず一撃食らわせる。
男が怯えて窓に目をやった隙に、距離を一気に詰めてひとまず鳩尾に一撃。
「げほっ……こ、この野郎、嘘を……」
……続いて、手をねじり上げて刃物を取り上げる。
刃物を持つ右手をねじり上げようと伸ばした手が、掴んだのは空気。
「嘘っ……っ痛!」
「ばっ、馬鹿にするな!!出来ないと思うなら、やっ……やってやる!!」
するりと身をかわしたことに興奮した男が、真正面から突き出すナイフを慌てて避ける。ちりりと焼けるような痛みが走ったのは、一瞬。
けれど、生温かいものが滑る感触は、ぞっとするほど現実感があった。
やらなければ、やられる。
焦りや恐怖がするりと消える。湧き上がってくるのは、傷つけられたことへの、怒り。
「ふっ……ざけんじゃないわよこの不法侵入者!!女の子の柔肌傷つけておいて何がやってやるですって?!出来るもんならやってみなさい、ケーサツに突き出してあげるんだから!!」
勢いよく唸りを上げた足が、ちょうど振り返った男の顔に綺麗に決まった。
「ぐはっ……こ、このぁへぶっ!!」
渾身の回し蹴りを食らって倒れこんだ男が起き上がろうとした瞬間、床についた右手、まだナイフを握ったままの手を掴む。有無を言わせぬ速さで力いっぱい捻り上げ、苦悶の表情で悶える男からナイフを叩き落した。
「この私にまだ口答えしようっての?!……っ天誅!」
位置や姿勢の関係で、左足。茅沙も少ない時間で考え多少手加減したのだが、爪先で蹴りを入れられた側としては昇天する痛みだったようだ。
声も上げることなく、男はその場で昏倒した。
「……最後の手段だと思ってやんないであげたのに。さぁ……後始末後始末、と」
何か縛るものを、と首に巻いたままのマフラーを使うことにした。するりとはずそうと腕を持ち上げた瞬間に、左腕の激しい痛みが茅沙を襲う。
「……嫌な予感がするわ。ちょっと、こう、あんまり深く考えちゃいけない気がする。よし、まずは警察と、なんか嫌な予感に従って救急車呼ぼう。うん」
部屋を見渡せば、ちょうどよくパソコンチェアに引っ掛けられたタオルが目に入った。ひとまずはそれを使って、片手で強引に止血する。それほど大きな傷ではないようだが、流れた紅いもの、白いタオルに染み込む色からは、目をそらさずにはいられない。
昏倒したままの男を首のマフラーで後ろ手に縛る。重く、次第に動かなくなっていく左腕は使わないように、動かさないように注意しながら、ローテーブルの上に置かれたコードレスフォンを握り、110番通報を入れた。
今すぐ急行します、と、受話器から聞こえてきた声に、胸の中を安堵が駆け巡る。
「あ、そう言えば……ノート、忘れてた……でも、ご、めん、慎、私、戻れないや……」
遠ざかる意識を取り戻そうともがく。
それでも、帰ってくるのは手ごたえのない、かすかな恐怖。
視界に靄がかかる中、浮かんだのは、懐かしい幼馴染の姿、だった。




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