走馬灯 3.事件発生
<< text index BBS >>



 「助けろ!」
「はぁ?」
ばたばたと、ものすごい足音が近づいてきている気配はした。
だから暗幕を開けた窓際で、わずかな陽光を楽しんでいたのだが……それさえもあまり意味はなかったらしい。
最速で開けられた引き戸の衝撃が、狭い部屋の空気を伝って窓ガラスを揺らす。
肩で息をしながらぞんざいに言われた言葉がたった一言、助けろ、だ。
「わけわかんないわよ、それ。ちゃんと説明なさいよ。そしたら助けてあげなくもないから」
「坂下先生がこう言った!『上原くん、これから時間空いてる?』デートのお誘いならもちろんオッケーですって言ったらにっこり笑って『それじゃあ二人っきりでしましょうか、追試』……だって!助けろ!!」
本人、かなり焦っているようだが、話を聞いた限り、それは助ける余地の無い馬鹿がやることだ。
「……それ、あんたが馬鹿なだけでしょ?」
「言うな!これでも冗談のつもりだったんだ!!」
差し迫った表情ですがるように詰め寄ってくる元幼馴染の顔に、思わず腰が引ける。それでも口だけは動かす。もはや反射だ。
「追試受けさせられるほど馬鹿なあんたが冗談なんて言ってるからでしょうが!!あんたが悪いのよそれは。なんていうか、もう、救いようのない馬鹿ってホントにいるのねー」
「うっせぇ!!助けてくれるのか助けてくれねぇのかどっちだよ!!」
「あぁはいはい、しょうがないわね、どうすればいいのよ?元幼馴染のよしみで助けてあげるわ」
だからいい加減離れなさいよ煩いわね耳元で、と目の前にある慎吾の額を手の平で力いっぱい押しのける。ごき、と嫌な音がしたような気がするが、当人は気にも留めず、むしろ彼女の答えに大喜びだ。
「おぉっ!!茅沙が優しい!明日は雨だな、雨!!」
「雪かもよ?……で、参考までに聞いておくけど」
「何だ?」
失礼な言葉を冷静に聞き流した茅沙の切り返しに、慎吾は喜びの笑顔のまま首を傾げる。こきん、と再び音がしたが、無事だろうか。
「あんた、何点取ったわけ?この間のテスト」
「……えーと……15点?」
笑顔を浮かべて、傾いだままの姿勢で、何の問題もありません、といった風に呟いた慎吾に、茅沙はにっこり笑って拳を握った。見よう見まねであろうとも、鳩尾を殴られれば痛いはずだ。
「死んどけ、このスポーツ馬鹿」
「ぎゃーっ頼むからそれだけは勘弁!!先生だって俺の部活の業績を考慮して『仕方ないわね、ノート持ち込み可よ、ただし自筆のノートのみ』って言ってくれたんだぞ!」
きらきらと目を輝かせる慎吾の鳩尾を、今すぐ殴ってやりたい衝動に駆られながら、茅沙が小首を傾げて問う。
「……もしかしてそれ、私に取って来いとか言う?」
「ご名答ー!だってな?『これから新3年生の教材を準備室に運ぶんだけど、それを手伝ってくれたら合格ラインを50点まで下げてあげるから』って言うんだ!手伝うだろ!!」
「……そう?」
「ちなみに、お前何点だった?あのテスト」
なんていうか、怖いもの見たさって言うアレだな、アレ、と呟く慎吾に、苦笑交じりで茅沙は答えてあげた。
「私?93点。英語得意だから」
「ちくしょー!!お前なんてお前なんてー」
「で?急がないでいいわけ?」
今にも廊下に躍り出そうな慎吾へと水を差す。これでは、何のために引き受けてやったのか分からない。
「はっ!!そうだ、忘れてた……これ、俺のアパートの鍵。お前も知ってるだろ、北門からひたすら真っ直ぐ行って上を高速が走ってる場所。その辺の道の左側に、ぼろいアパートがある。名前もなんかすぐに崩れそうな『冬夜荘』だ!」
「……確かになんか不安ねー」
素早くまくし立てられ、ポケットから出てきた生暖かい鍵を手渡されて、茅沙は溜め息をつく。そんなに差し迫るようなら、もっと早くに何らかの手段を講じればいいのに。しかも、説明も大まか過ぎて、本当に行ってみなければ分からない。なんとも不安な依頼だ。
「部屋は二階、階段上って一番奥。ノートは、多分……ほ、本棚に、入ってんじゃねぇかな……んじゃ、行ってくる!頼んだぜ!なんかあったら、携帯に連絡入れてくれ、よろしく!」
「ちょっと、なによその微妙な答え!無かったら持って来ないからね!!」
開け放したドアから、冷たい空気が流れ込んでくる。走り去った慎吾の背中を見送って、茅沙はパイプ椅子に引っ掛けてあるマフラーを手に取った。押し付けるように握らされた鍵には、ひそかに人気らしい血に濡れた口元と鉤爪を持つピンク色のクマのキーホルダーがついている。案外可愛いシュミなのね、と一人で呟いて、マフラーを首に巻いた茅沙は、自分の財布と携帯電話、クマ付きの鍵、部室の鍵を持って、施錠した部室を後にした。
今日は、まだ暖かいほうだ。

 確かに、慎吾のアパートはすぐに見つかった。
学校から徒歩10分。自分は自宅からバスで25分もかかるというのに、この贅沢もの、と言いたいところだったが、見上げたアパートの姿を見てはとてもそんなことは口に出せない。今にも壊れそうな薄汚れた外観に、落ちる一歩手前の『冬夜荘』という木製の表札。
教わったとおり、鉄筋むき出しの、華奢な……しかも所々錆びて穴が開いている階段を用心深く上って、4つのドアを過ぎた突き当たり、5つ目のドアの前に立った。郵便受けには確かに『上原』という文字が見て取れる。
「……これ、家賃いくらなのかしら」
バイトでもすれば自分で払えるんじゃないの、と誰ともなく呟いて、茅沙は鍵穴に預かった鍵を差し込んだ。
かちり、と小さな音がした。ドアノブを回す。
「……あれ?」
ドアが開かない。と、言うことは鍵がかかっていなかったのだろうか。
「慎ったら無用心ねー……やっぱりそそっかしいんだから。もし空き巣でも入ったらどうするつもりよ」
こんなところに限って、ありえないだろうけど……と呟きながら、差し込んだままの鍵をもう一度回す。
再び小さな音がして、茅沙はもう一度ドアノブを回した。
「おじゃましまーす……っと」
今度は確実に開いたドアを理由もなくこっそりとくぐって、茅沙は靴を脱ぎ、きちんと揃えて廊下へ上がった。




<< text index BBS >>
走馬灯 2.きっかけ