モノカキさんに30のお題 26.パンドラ
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 何もない廊下で躓いて転びそうになって、原田は自分のことがますます嫌いになった。
辛うじてバランスをとったものの、こんな情けない様を誰かに見られたくはない。ここ最近の癖になってしまった溜め息を吐き出して、原田は再び歩き出した。
勉強に差し障りは出ていない。講義中はその内容に集中していられるから、することがない時間よりずっとましだ。空いた時間のほとんどを自習に当てているから、テスト前に提出するレポートまで書き上がってしまった。まだテスト週間まで半月ある。
 今日はすでに講義も終えた時間帯だが、江藤教授から呼び出しを受けた。用件ははっきり聞いていないが、おそらく配布物かゼミの休講や教室変更などの諸連絡だろう。
過去にも何度となく通った研究室のドアを、3回ノックする。
「どうぞー」
いつも迎えてくれる声は、変わらない。
……己の意志で切り捨てた彼女も、マンションへ帰ると必ず「お帰りなさい」と迎えてくれた。柔らかな笑顔で。暖かい声で。
それらの感傷を振り払うようにドアノブを回して、開く。
「原田です。何の御用ですか」
デスクに向かっている江藤教授に、見えないと分かっていながら頭を下げる。
回転椅子が回るときの独特の軋みがして、原田は顔を上げた。
「教務課と事務室からの連絡プリント。学年に回しておいてね。あと、何人かがゼミ旅行の話もしてたから、できるだけ早めに相談してあげて。テスト明けの打ち上げ、あれの日程も決まったみたいだから、宴会部長から詳細聞いて、伝達よろしく。それから……」
いつもとは違う、畳み掛けるような言葉。
こんなにそっけない話し方をする人ではなかったように思う。
内心首を傾げながら、原田ははい、と頷いた。
「めぐを、振ったんだって?」
何気ない風を装った目の前の男性が、彼女の父だと。
原田は、その瞬間にようやく思い出した。
「あ……」
何を言っていいのか、分からない。躊躇いと混乱と、自分の馬鹿さ加減に目が泳ぐ。
「……別に、僕はだからと言って君にどうこうしようとは思ってないよ。親馬鹿だって自覚はあるけど、めぐの悲しむようなことはしたくないからね。でも、いくつか、君に聞いておきたいんだけど」
普段の穏やかな微笑などどこかへ消え去ってしまったその人の声が、原田に冷たく響いた。
表情はないが、彼の目が、原田への怒りを隠し通せずに鋭く光っている。
「……君は、めぐのことが嫌いで、めぐを振ったわけ?」
この人に、嘘をつけるわけがない。だが、言うのも躊躇われる。
真っ直ぐに見ることも出来ないほど、彼の視線は澄んでいて、目を合わせたが最後、何もかもを見抜かれてしまいそうで怖かった。
「別にどんな答えだろうと僕の君への評価は変わらないよ。ただ、めぐに悲しい想いをさせてしまったのは結果的に僕なんだと、はっきりさせられるだけで」
ほんの少し悲しみの色を宿す目を見て、その言葉を聞いてしまっては、原田も黙っていられなかった。
原田にとって大切な人である教授が、そんな風に誤解するのは、我慢ならない。
「違います……!振った、のは、事実になるのかもしれません。けど、俺は彼女を大切に思ってますし、幸せになって欲しいと思ってます。だからこそ……俺は」
「身を引いた、って言うの?それでめぐが幸せになれるって?」
身を引いた、と言う言葉に、原田は思わずびくりと肩を震わせた。確かに、結果的にはそうなるのかもしれない。自分には出来ないことが出来る、あの少年にめぐみを託したのだから。
俯き、拳を握った原田から答えが返ってこないのを感じたのか、彼はふっと溜め息をついて再び口を開く。
「……まぁ、いいよ。じゃあ、君はめぐが僕の娘だから、振ったの?」
「ありえませんっ!!」
「へぇ?どうしてそんなこと言い切れるの?」
小首を傾げて答えを待つ教授に、原田は言っていいものかどうかとしばらく悩んで、仕方なく小声で答えた。
「……その、恥ずかしい話ですが、今さっきまで、すっかり忘れていました。そうですよね……めぐみちゃんは、教授の娘さんだったんだ……」
こんな話をすることになるなんて、考えてもみませんでした、と原田は軽く息を吐き出した。
「……その言い方だと、僕の娘だって覚えてても、めぐのこと振りそうだね」
教授の投げかけてきた確信に似た疑問に、原田は息を飲んだ。
裏を返せば、教授の娘が相手であれば誰でも受け入れると、そんな風に思われていたことになる。
「それは……いくらなんでも、あんまりです。俺は、めぐみちゃんをそんな意味で見たことは一度もありません。めぐみちゃんは、俺にとっては一度だって教授の娘さんだったことはないんです。いつでも必ず、めぐみちゃんは、めぐみちゃんで……」
どうしてこうなってしまったのだろう。
原田は、再び吐き出してしまいそうになった溜め息を飲み込む。
彼女の告白に、たくさんの喜びが溢れ出した。けれど同時に、開けてはいけないパンドラの箱のように、たくさんの悲しみや負の感情も零れ落ちた。開けてしまったその箱を逆さにして振って見ても、希望なんて出てこない。何かが出てきたとしても、それは希望以外の何かだ。彼女はもう、自分の手の届かないところにいるのだから。
「君は……もっと大胆になった方がいいと思うよ」
ぽつりと呟く目の前の人の声に、原田はゆっくりと顔を上げた。
教授は、先程までの険しい表情を消して、すっかり普段通りの穏やかな顔になっていた。
「僕は、恋って傷つけても手に入れるものだと思うよ。原田君、あのときの選択に迷いはない?もう一度やり直せたとしても、同じ選択が出来る?もし別の道を選んでいたら、なんて考えない?」
次々に問いかけられる言葉に、原田は何も言えなくなる。
迷いはないか、なんて当たり前のことを……そう思おうとしたけれど、駄目だ。
「……ずっと、迷ってます。あれで本当によかったのかって。いまさらどうなるものでもないのに。でも、考えてしまう。もしも時間が戻るなら……つまらないことを考えずに、彼女の手をとることが出来るのに。どうしてあの時、我慢できるなんて馬鹿なことを思ったんだろう……!!」
時間が経てば経つほど、会いたくなる。声を聞いて、優しい笑顔を見たい。もう取り戻すことは出来ないのに、常に後悔に晒されている。
手が届かなくなってから、自分の考えの甘さを実感した。
考えてどうこう出来る問題ではないのだ。意志で押さえつけようとして、押さえられるものならこの世界には略奪愛なんて言葉は存在しないはず。
奪い合ってでも手を伸ばし、手に入れたいと思うのが、怖いくらいに自分を支配していく恋という感情。
想われると同時に、想いたいと、想うと同時に、想われたいと思うのが、正しい形なのだ。
綺麗ごとや逃げ腰な態度で、手に負えるような容易い感情ではない。
「……大丈夫だよ。うちのめぐは、そう簡単に諦めるような子じゃない。若いうちは、たくさん間違ってたくさん後悔するといい。ただし、君はもう気がついたんだから、二度とめぐを悲しませるような真似、しないでね?」
「え……?」
思わせぶりな科白に、原田は思わず聞き返した。けれど、彼から返ってくるのは曖昧な笑みだけ。
「希望は、最後まで持つから希望なんだよ」




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モノカキさんに30のお題 26.パンドラ