モノカキさんに30のお題 21.Cry for the moon.
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 大丈夫だと思い込んでいた自分に、おかしいくらい腹が立った。
人一人の想いを裏切るのだ。
いくら彼女の幸せがその先にあるといっても、その痛みを自分が与えるとなると話は別だ。
それなら自分以外からそれがもたらされるのなら良いのかと言われれば、それもまた納得はいかないが、現実の重さは原田を押しつぶすことなど容易い。
自分を痛めつけるように、重たい荷物を抱えて階段で降りた。
1階に降りる頃には汗だくで、息も激しく乱れていたけれど、そんなことで己の犯した罪が報われるわけでもない。彼女の言うとおり逃げ出した自分が、そんな些細なことで許されるはずもない。
荒い息のまま、自分のアパートを目指して早足で歩いた。
夜の帳の降りた入り組んだ路地は一人歩きには危ないだろうが、そんなつまらないことに構っている暇はない。このペースのままでは、確実にバイトに遅刻してしまう。
こんなときでさえ自分のアルバイトの心配が出来ることに、原田は嫌悪を覚えた。
堕ち続けるのは……自分が望んでのことなのか。
それとも……もう這い上がれないほど堕ちているから、ここから先は堕ちるしか術がないのか。
その両方だ、と原田は呟く。
そして、ゆっくりと足を速めて、そのまま走る。
速く、もっと速く。
走ることで忘れられればと、考えることを放棄した頭でぼんやり思った。

 久しぶりの我が家は、薄暗くほんの少し湿り気を帯びた匂いがした。
2階の角、ワンルームの部屋には、パイプベッドと本棚いっぱいの本、そこから溢れ出して床に積んだ専門書、小さなローテーブルがひとつ、その上にペン立てがひとつ。
雑然とした部屋だが、今までそれなりにきっちりこなしてきたからには何もしないままでは気持ちが悪い。めぐみの家に居候として住み着いてからでも、週に一度は掃除に来ていた。それでも梅雨時の湿度は相変わらず部屋にこもったままだ。
重たい空気に纏わりつかれながら、体を引き千切りそうな荷物を降ろす。
整理は帰ってきてから、と自分に言い訳をして、すぐに出かけられるようにしてあったヒップバッグひとつで玄関に向かう。
靴を履いて、ドアを開ける。開けた途端に、柔らかな光に照らし出された。
太陽の光ではない、目に優しい柔らかな月光。
けれどそれは、妙に空々しい他人行儀な青白さと、意外なまでの存在感があって、原田の目に焼きついた。
……月夜を見上げるたびに、今日の日のことを思い出そう。
このままずっと、彼女を傷つけた自分の罪を、月を見上げるたびに思い起こそう。
そして……彼女に忘れられたとしても、自分だけがあの優しい微笑みを覚えていよう。
それが俗に未練と呼ばれるものであろうとも……この選択を後悔しないと。
胸の奥で響く軋みを聞きながら、ほんの数瞬、原田は月に見惚れた。
きり、と唇を噛み締める。
何かが込み上げてくるような感覚があったけれど、それを素直に外に解き放つことは、今の原田には出来なかった。
簡単に泣くことなんて、泣いて許しを請うような真似なんて出来るはずがない。
今すぐにも来た道を戻って、彼女に謝りたい。
そんなことを思えば、更に大きく軋む音と激しい痛みを感じて、そのうち胸の中にある目に見えない何かが飛び散って壊れてしまうかもしれないな、と彼は医大生らしからぬことを呟いた。
 涙を流すことは許せないけれど。
知らん振りで皓々と町を照らし出す月に、原田は手を伸ばす。
彼女は月だ。そう自分に言い聞かせる。
月だから、自分の手が届くわけない。
いくら手の届きそうな場所にいても、本当に届くはずがないのだ。
あれはきっと、一時の幻想。月の持つ揺らぎ。満ち欠けと同じようなものだ。
ふとした拍子にちっぽけな自分に興味を持つ。
ちっぽけな自分は、月に恋なんてしても、報われないのだから。
鬱々とした気分を振り払うように、廊下を走って、外に設置されている階段を駆け下りた。
月の光は途絶えない。
月も、原田をゆっくりと追いかけてくる。その足元を照らしながら、ただ静かに。
きつく拳を握って、ほかのことを考えなくて済むようにひたすら走った。
腕に時計はなかったけれど、これは確実に遅刻だな、と原田は誰にともなく呟く。
荒くなる息に混じって、顔を滴が滑り落ちていった。
 これは汗か涙か。
ふと思って、すぐさま振り払った。
またあてもない考えに沈んでしまいそうで、原田はがむしゃらに走る。
息が切れる限界の感覚に、出来ることならこのままどうにかなってしまいたい、と原田は乱れた呼吸に想いを溶かして吐き出した。
けれど、すぐに苦しくなって足が止まってしまう。
これ以上の遅刻は出来なくて、原田は精一杯の速さで歩きながらもう一度月を見上げた。
この月を、彼女も見ているだろうか。
悲痛な声で、逃げるのかと問うた彼女も。
そうであるならば、どうか。
淡い光を放つこの月が、少しでも彼女の心の支えになりますように。
彼女のためにもう少し暖かな色を宿してくれますように。
自分がつけた彼女の傷が、この月に少しでも癒されますように。
そして、歪んだ考えだと分かっていながら、それでも想う。
願わくば、どうか。
……彼女も、この月にこの日を重ねて、自分の存在を片隅へと置いてくれますように。

 額と頬を流れる滴をTシャツの袖で拭って、原田はまた走り出した。




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モノカキさんに30のお題 21.Cry for the moon.