モノカキさんに30のお題 20.モノクロ
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 まだ夕方の風は冷たくて、心地いい。
めぐみは原田の前を歩きながら、目を細めた。
「今晩は、グラタンですけど……なんかトッピングのリクエストありますか?」
「え?……あ、うん。めぐみちゃんのおすすめ、がいいな」
水族館を出てから、どこか上の空な返事しかしない原田に、めぐみは小首を傾げて振り返る。
「先輩……なんか、変。疲れさせちゃいましたか?」
ぼんやりした焦点の合わない視線に、不安が募る。
「大丈夫。なんでもないよ。ただ……もうすぐ、夏だな、って」
長いと言うには足りない、2ヶ月と半分。
それを思い起こしているのか、原田の表情が穏やかになった。
春真っ盛りだった季節から、新しい季節へ。それを越えられるのだと思うと、めぐみも思わず口元が緩んでしまう。
「今はまだ、この時間歩いてて涼しい、って感じられますけど、もう少ししたらそんなこと言ってられなくなりますもんね。早めに行ってよかったー」
明日も休みでよかった、とめぐみは思う。
原田に気持ちを伝えて、答えは確かに聞いていないけれど、その『伝えた』という行為だけでもめぐみにとっては一世一代の大勝負だったのだ。
実行できた自分を褒めてあげたい。
そんな舞い上がった気持ちで、高木には顔を合わせられない。
きっと浮ついているだろう自分の表情を、あんなにも真剣に気持ちを伝えてくれた高木に見せるのは、とても失礼なのではないか。
もちろん、今までにもそうやって気持ちを伝えてくれた人はたくさんいた。彼らにも当然の敬意を払ってきたつもりだ。それでも、自分の持っていなかったあの気持ちを、しっかりと持って伝えてくれた勇気に、めぐみは今までの彼らへの応対をほんの少し後悔した。
そんな風に悩めば悩むほど、深みに嵌っていくのだ。
だから、考えないためにもいくばくかの猶予が欲しかった。
明日の休日はそのためのものだと、めぐみは考えている。
一人でゆっくり考えて、気持ちの整理をして。
それから、また原田に訊きたいことを訊いたら、そこでようやく進める気がする。
時間はたっぷりある。
それなのに。
……心ここに在らず、といった様子の原田を目の当たりにするたび、めぐみの心は酷く不安を訴えた。

 普段通りに夕食が終わって、原田はアルバイトに出かける準備をしに、部屋へと戻って行った。いつもと同じだ。
シンクの前に立って、食器を洗っていためぐみは、胸騒ぎに神経を逆撫でされて、どこか腹立たしい気持ちでいっぱいだった。
……どうしてこんな気持ちになるんだろう。
原田に気持ちを伝えられて嬉しいはずなのに、何かが起こりそうな……嫌な予感。
水を張ってあったグラタン皿をゆっくりと指で擦り、こびりついたものが取れたのを確認して、スポンジで更に擦り取る。
泡だらけになったそれを水ですすぐと、綺麗に汚れの落ちた耐熱ガラスが蛍光灯の明かりで淡く光っていた。
水切り用の籠に上げて、吊るしてあるタオルで手を拭く。
パタン、遠くで音がした。
あぁ、行くんだな、とめぐみはリビングの方へ出て原田の姿を見る。
そして、愕然とした。
「……先輩……?」
おそらく、教科書や参考書しか詰まっていないのだろう重そうなデイパックと、さほど重そうでもないスポーツバッグ。それにいつものヒップバッグで、一見部活かジム帰りの学生にしか見えない。
ほんの囁くような声だったのに、こんなときでさえ原田は聞き届けて、返事を返してくれる。……ただし、振り向かないままで。
「あぁ、めぐみちゃん。俺、今日でここを出ようと思って。いつまでもただでお世話になってるわけにもいかないし、いい加減自分の勉強も本腰入れないと……これでも3回生だから。ホントに、今までありがとう」
感情を遮断したように淡々とした口調で言葉を並べただけの会話。
めぐみの頭が急速に冷めて、思考能力を奪っていく。
わけが分からない、なぜ、どうして。そんな切りのない自問を断ち切ったのは、原田の立てた大きな音。
どさり、と荷物をフローリングの廊下に下ろす音がして、原田が玄関にしゃがみこんだ。どうやら、靴を履いているようだ。
けれど、胸の中を駆け巡る困惑に、めぐみは動けない。
焦りや、不安や、置いていかれる恐怖、憤り、悲しみ……様々な感情が混ぜ合わさって、考えることを拒否させる。
もし今このまま走り出して飛びついて、彼に行かないでと縋りついたら……原田は、まだここに残ってくれるだろうか。
……答えは、否、だ。
どうせ今彼を引き止めることが出来たとしても、いずれ彼は自分の元から去ってしまう。
そんな、漠然とした予感……いや、はっきりとした確信があった。
これが、胸騒ぎの原因だったのね、とめぐみはほとんど思考の停止した頭の中のどこかで考えた。
ぽつりと自分の中に湧き出してきた言葉を、さほど考えもせずに吐き出す。
「……逃げるん、ですか」
原田が、びくりと震えたのが見えた。
……けれど、それだけだった。
「そうだよ。俺は、君から逃げる。存在するようで不確かな気持ちは俺には分不相応なものだから。めぐみちゃんも、周りを見て。俺なんてきっと、すぐに忘れてしまえるから……」
そんなことない、そんなこと言わないで。
言いたい言葉は、声にならずにどこかへ次々と消えてしまう。
布の擦れる音と、手提げ部分の上げた小さな悲鳴と、妙に部屋に響き渡るがちゃんというドアを開ける音。
めぐみは目をしっかりと開いて、届かないと分かっていながら手を伸ばした。
コマ送りになる光景の向こうに、原田がいる。
「先輩……」
背中を向けて、ぎこちなく。
動作の一つ一つが分解されて見える不出来なモノクロ映画のように、フィルムが回る音以外を持たない無声映画のように。
涙で滲んで見えなくなる後姿は、めぐみの瞬きより先に、無情に閉じてしまうドアとその大きな音に掻き消された。
「先輩!!」
しゃがみこんだ冷たいフローリングの上に、熱い涙がぱたぱたと音を立てて落ちた。




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