モノカキさんに30のお題 16.涙
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 驚いて、どうすればいいのか分からなくて、めぐみは走った。
どこという目的はなかったけれど、強いて言えば……原田とあの人が見えない場所に行きたかった。
 仲のよさそうな二人の大学生。見慣れた男の人と、見たことのないくらい綺麗な女の人。
並んで歩く姿を見たそれだけで、ものすごい吐き気と不安に襲われた。
だから、見つかる前に走って逃げた。
ぜいぜいと切れた息に、速度が下がる。
めぐみの全速力から、ゆっくりとした普段の歩みへ戻っていく。
そこでようやく回りを見渡して、ここが学校と自宅のちょうど真ん中あたりにある公園だと分かった。どこをどう走ってここまでたどり着いたのかは、よく覚えていない。
「……なに、あれ」
楽しそうに笑っていた。
あんな笑顔は、見たことがない……少なくともめぐみ自身はそう思った。
胸の奥から湧いて出るのは、認めたくもない汚い感情。
それを自分が持っているのだと思うと、嫌で嫌で仕方ない。
こんな気持ちは、知らない。
自分以外の誰かをこんな風に思うようになるなんて。
 ようやく、めぐみは自分の気持ちをはっきりと理解した。
これは、親戚への家族愛でも、友愛の情でもない。
強く激しく溢れ出す、独占欲と紙一重の恋。
胸が痛くて、苦しくて……めぐみは、ベンチに崩れるように座り込んだ。
その拍子に、こらえていた涙がこぼれる。
あぁ、こんな風に泣くことがあるなんて知らなかった……と、めぐみは小さな呼吸を繰り返した。
「……めぐみちゃん?」
全身が緊張して、大きく震えたのが自分でも分かった。
ゆっくり近づいてきた人に、心配そうに覗き込まれる。めぐみは指先でそっと目元を拭って、恐る恐る顔を上げた。
「たまたま通りかかったら、何だか気分悪そうだったから。大丈夫?」
「……高木君……」
学校で、友達の軽口とどさくさにまぎれてそう呼ばれ始めたのを覚えている。
原田の声より、やや高い高校生らしいまだ子供の気配の残るそれ。
「冷たいもの、飲んだほうがいいよ」
持ち上がった右手から差し出されたのは、ストレートティーの缶だ。
もう片方の手には、彼自身の分なのか、缶コーヒーが握られていた。
「隣、座っても?」
「あ……うん、どうぞ。……ありがと、気を遣ってくれて」
真ん中当たりに座っていためぐみは、身体を横に滑らせて席を譲った。高木の身体が滑り込んでくる。
「何のこと?」
ぷしゅ、と快い音を立ててプルタブを開けたのは、高木だ。それから、口の開いた缶紅茶はめぐみの手に渡される。
そこまでしてくれるとは思っていなかっためぐみは、慣れない扱いを受けて小首を傾げた。
「……高木君って、いつもこんな風にしてるの?」
「こんな風って、缶開けたこと?それとも、気になる女の子と少しでも接点持とうと思って地道な行動してること?」
冗談めかした口調に、めぐみは少しだけ笑って、缶開けたこと、と呟いた。
「いつも、じゃないよ。好きな子か、彼女か。オレはお人好しじゃないから、親切の安売りは苦手なんだ」
口調は変わらないが、本気とも取れる空気を含んだ視線に、めぐみの表情が強張る。
「何だかよく分からないけど、やなことあったなら吐き出してすっきりした方がいいよ?めぐみちゃんにはオレ、親切のバーゲンセールでもやってあげるから」
何となく、せっつかれているような気分になったけれど、今のめぐみにはそれくらいでちょうどいいような気もした。
小さくいただきます、と声に出して、紅茶を一口飲み下した。
喉に張り付いていた嫌なものが、全部冷たい紅茶で流れていくような錯覚に襲われる。
ひとつ深呼吸をして、隣で黙ってめぐみの言葉を待っている高木のために、ゆっくりと口を開いた。
「……さっきまで、好きになるなんて全然そんなこと考えてなかったの。有り得ないって、思ってた。なのに、今さっき……ちょっと色々あって。ある程度覚悟はしてたのに、現実になると我慢ならなかったみたい。もしかしてそうかも、って意識すると、止まらなくって……びっくりして、すごく嫌でね、顔も合わせずに逃げてきちゃった」
弱虫なのよ、私、と呟いて、めぐみは顔を伏せる。
「……うーん……それをオレに言うかなー」
隣からの声にゆっくりと顔を上げると、高木は困ったような少し怒ったような、難しい表情をしていた。
「高木君?」
「いや、オレはもう分かってくれてるものだとばかり思ってたんだけど。やっぱり言わなくちゃ分からないんだろうね」
さっきまであんなに複雑な表情で眉根を寄せていたのに、今はもうその視線は穏やかでめぐみを柔らかく包んでくれる。
しばらく見つめて、高木の表情が笑みに変わると、めぐみは思わずその美しさに頬を染めた。綺麗な人に、性別は関係ないのだ。
「あのさ、めぐみちゃん。こんなときに言うのって卑怯なのは分かってるんだけど、言わせて。オレ、めぐみちゃんのこと好きだよ。もちろん、友達とかそんなじゃなくて、女の子として。だから、もしその恋がつらかったら、オレのところに来てくれていいから。今は恋じゃなくても、一緒にいるうちに、恋になるかもしれない。そんな小さな望みにでもかけてみたいくらい、オレは本気だから」
優しい笑顔を浮かべたまま、はっきりと言われて、めぐみは息を詰まらせた。
今さっきまで、ただのクラスメートだった人。それが、今この一瞬を境にまったく違う意味を持って目の前にいる。
見えなかった感情や何もかも、全部が不思議で、同時にそれが酷く怖くなって。
わけの分からないままめぐみはほろりと涙をこぼした。
いきなり泣き出しためぐみに驚いて、高木は目を瞬き心配げに声をかけてくれる。
「わ、待った、泣かないで。オレ、めぐみちゃんを泣かせたいわけじゃないんだから」
「……うん、違うの。高木君は、すごいなぁって」
「……めぐみちゃん?」
ポケットから取り出したハンカチで、そっと目元を拭った。
今にもこぼれてきそうな気がするけれど、大丈夫、我慢できる。
「ごめんね、驚かせちゃって。えっと……ちょっと、びっくりしたの。でも……私、今は自分の気持ちで、精一杯。どうすればいいのか、分からなくって……混乱してて。だから、ごめんなさい」
ほんの少し上目遣いで、高木の顔を見上げる。正面から見つめるのは、どこか気恥ずかしい。その気持ちを隠して、分かってくれるよね?と念を押しためぐみは、高木の返事を待たずにベンチから立ち上がり、出口のほうへ体を向けて。
その先にいた人の姿に、凍りついた。
「……先輩」
ほんの少し荒い息を繰り返している原田に、思わず後図去る。
さっきあんなに楽しそうだったのに、どうしてここにいるのか、とかそんな怖い顔をするのは、とか……色々なことを聞きたいし、胸に芽生えた言葉を伝えたいのに、それらは頭に浮かんではすぐさま消えてしまう。
原田が、ほんの少しだけ表情を緩めて口を開いた。
「……めぐみちゃんは病み上がりなんだから、寄り道しちゃだめだよ。……今日は、教授が一緒にご飯食べるって。俺は……今日は、遠慮しとく」
それだけ、と呟いた原田が、さっと身を翻して生垣の向こうに消えて行った。
……何の感情も残らない、痛いほどにそっけない声。
ただそれだけで、止まったはずの涙がまた頬を滑っていく。
どうすればいいのか、分からない。
すれ違う感情と現実に、胸の底が軋んだ。
後ろからそっと髪を撫でてくれる誰かの手に、めぐみは身を委ねた。




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