モノカキさんに30のお題 15.シンドローム
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 これは病気だ、と原田は自己診断した。
確か今年の新歓で酔っ払って、恋は病気だ、とか何とかうんちくをたれていた4回生の先輩の言葉を思い出す。
恋煩い症候群、とは一体どういう意味だったか。
なんせ自分もやや酔いが回っていたため、はっきりとは思い出せない。
あの頃は何の興味もなかった。だから、右から左に聞き流してしまったけれど、こんなところで必要になるとは思っても見なかった。必要とは思えないような知識でも、いずれどこかで必要になるのだと言っていたのは、確か三角形の定理を習っていたときの数学教師だったか。
……こんなことを考えていること自体が、今までの自分には有り得ない。
分かるからこそ自分の精神状態が普通ではないと、原田自身が理解できる。
「……困ったな」
途方に暮れたように彼がそう呟くことなんて、今まで有り得なかったから。
「……なによ、気味悪いわね。あなたがそんなこと言うなんて。……恋煩い?」
図書館に向かい合って座っていた同じゼミの友人……原田の唯一に近い女友達は、冗談めかしてそう声をかけた。
原田は、否定することも出来ず小さく首を傾げて、友人の問いに答える。
「……かも、しれないけど。違うといいなぁ」
そうだ。これが本当に風邪か何かならいい。
薬や休息で治る病気なら。
「ちょっと、大丈夫?あなたがそんな弱気なの、なかなかないのに」
「大丈夫だったらそんなこと言われないって。自分が自分じゃなくなっていく感じ」
どんなよ、と友人に突っ込まれて、原田はうーん、とひとつ唸り声を上げた。
「今まで普通だと思ってた自分の行動が全部覆されていくみたいな。これが恋とかそんなのじゃなくて、子供から大人になったんだ、って言われると安心できそうなんだけど」
「今頃子供から大人になんてなるわけないじゃない。恋っていうのは、突然やってきて自分を全部塗り替えちゃうものなのよ。それ、紛れもなく恋ね、恋。諦めるしかないわ」
男友達と変わらないくらいさっぱりした性格の彼女だが、容姿に難点のつけようはなく、当然彼氏持ちだ。その彼氏も原田の友人の一人で、他のゼミの仲間を交えて騒ぎまわった過去もある。こうして二人きりで図書館にいても、疑われない程度に原田は信頼されていた。疑われる要因がまったく出ないことも、理由のひとつだろうが。
容赦なく切り捨てるように断言されて、原田は情けなくため息をついた。
「……何となく、これ言うと馬鹿にされそうで嫌なんだけどさ」
「ん?」
「恋ってどうすれば治るかな」
冗談には聞こえない真剣な声音で問われた友人は、当然ながら閉口した。
原田は、目の前のレポート用紙に視線を落としたまま、時折手の中のシャープペンを動かして文字を書き留めている。呟いた言葉以外は、普段とまったく変わらないように見える。
なのに。
……末期症状ね、と彼女は思った。
目の前で澄ました表情のままペンを走らせる原田の頭を、子犬でも撫でるように触ってやる。
「っわ、何するんだよ、いきなり」
「あのねぇ、多分それもう治らないと思うわ」
答えて、原田の前に並べられたレポートの一枚を引き抜いた。
「あ、こら、それは俺の」
「恋っていうのは、何にしたって相手に想いを伝えない限りは終わりもしないし、発展もしない。恋煩いを治すのに一番の近道は、恋した相手に告白するってことだけよ。断られれば恋は終わり、想いが通じれば、更にレベルアップして悪性になるだけ。……通じなくても悪性になって、相手を付け回したり嫌がらせしたりする男もいるけど」
ここがいまいちよく分からないのよ、と呟いて文面を読み進める友人に苦笑して、原田はお手上げ、とでも言うように肩を落として見せた。
「それが出来れば、苦労しないよ」
盗られた一枚を取り返すのは後回しにして、原田は開いた参考書のページにしおりを挟む。
「ことはそう簡単にいかないんだって」
「そんな簡単に上手くいく恋があってたまるものですか。恋っていうのは、障害だらけで強く燃え上がるものよ」
……そう、だろうか。
原田は連番を振ったレポートをまとめながら自問した。
障害がある、ということは、自分と恋した相手の他に、別の誰かがいるということだ。
誰か、というのが誰になるのか、原田にはまだ分からなかったが、その障害を乗り越えることで自分以外の誰か……それは傷害と呼ばれる誰かか、もしくは自分の恋した相手になるだろう……が傷つくと仮定してみる。
「……俺、自信ないなぁ」
苦笑混じりに吐き出した声は、本当に自信の欠片も見当たらないくらい情けない。
どんな状況をシミュレートしてみても、原田は自分に不利な選択をしてしまう。
「人を傷つけないで、って、無理な話なのかな」
目の前にいる彼女からなら、きっと。
「……あなた、今でもそうだけど、どこまでお人好しになりたいの?自分を犠牲にしてライバルの幸せを見守るなんて、今時の人間のすることじゃないわ。……いいえ、昔の人間だってもう少し自分の気持ちには素直なはずよ。もっと図太く生きなさい、図太く」
想像したとおりの答えに、原田は笑う。
「俺には無理だって」
「そういう心構えが駄目なんでしょ?あなたはまず自分の魅力についてもっと自覚すべきだと思うわ」
真面目腐った顔をした友人に、鼻先へ指を突きつけられる。
原田は曖昧な笑みを浮かべたまま、目の前の指を下ろさせ、でも、と呟いた。
「俺、いいところないだろ?」
何の疑いもなしに真っ直ぐ目を見て言ったら、友人は一瞬押し黙って、深く深く溜め息をついて。
「私、あなたのその罪作りなところが好きよ」
と呆れたように笑った。




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