モノカキさんに30のお題 10.ドクター
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 ちゃりん、と小銭が散らばる音と、レジ係の女の人が『申し訳ございません』と謝る声がエコーのように耳に響いて聞こえた。
「大丈夫です、こちらこそ、すみません」
軽く頭を下げて、落とした小銭を拾おうと屈んだめぐみに、声が降ってくる。
「袋に、詰めとくよ?」
原田の声だ。
普段と変わらないけれど、ほんの少し心配そうな響きがある。それだけで、変に嬉しくなった。
「お願いします」
手の中の小銭と、目の前に散らばる小銭の金額を、お釣りとして渡された額に照らし合わせる。少し離れた場所で、原田が手馴れた様子で食材をスーパーの袋に詰め込んでいるのが見えた。
拾い残しがないことをレシートで確認すると、それを財布に納めて腰を上げる。鞄に財布を戻した頃には、原田の両手に限界までふくらんだビニールの手提げが二つも出来ていた。
「一つ持ちます」
手を差し出しためぐみに、原田は首を振って先に行ってしまう。
外に出ると、雨は止んでいた。
めぐみは、原田の傘と自分の傘を持って彼を追いかける。
「でも先輩、重いでしょう?」
「大丈夫だよ。これでも男だから」
「でも、この間倒れちゃったし」
「あれは、栄養失調と過労。体力不足じゃない……と思う」
表情は相変わらず穏やかだが、原田の言葉には反論を許さない強さがあった。
外に出ると、生暖かい風が頬をなぞっていく。
なのに、体はなぜか寒い、と認識する。
変だな、とめぐみは思った。
先を行く原田の背中を見つめていると、理由もないのに目が潤む。
頬が熱くて、けれど体は寒い。
普段より少し早足なだけなのに、すぐに息が乱れてくる。
寒いはずなのに額に汗が滲んでいた。
「先輩……待って」
追いかけても追いつけない年齢差のように、どんどんと離れていく自分たちの距離が、怖くなった。
めぐみの小さな声に、はっと振り向いた原田が慌てて立ち止まる。
めぐみは、精一杯で原田に追いつこうと足を速める。
「ご、ごめん……!急がなくていいから。大丈夫?無理させたね」
そわそわと落ち着かない原田に、めぐみは首を傾げた。
「先輩?」
「あぁ……その、違うんだ」
「家はすぐそこだから、アイスは溶けませんよ?」
こんなに急ぐのは、きっとアイスの入った袋を持っているからだろう、と推測しためぐみは呟く。
もう、めぐみの住むマンションは見えているのだから。
めぐみの言葉に、原田は何か言おうと一瞬口を開き……すぐに閉じて、じゃあゆっくり行こう、と自分に言い聞かせるように囁いた。
歩みが、緩やかなものへと変わった。
 それでも、めぐみの足はなかなか原田と同じ速さで進まない。
頭では、今の速さが普段よりずっと遅いことは分かっている。
けれど、足は思うように動かない。変だ、とめぐみは確信した。
視界がほんの少し揺らぐ。しかし、一緒にいるのは大荷物を持った原田だけ。今倒れたりしたら、原田に大きな迷惑をかける。
それだけは、嫌だ。
そう心に強く思って、めぐみは一生懸命に足を踏ん張った。
マンションの自動ドアをくぐり抜け、ちょうど待ち構えるように止まっていたエレベーターに乗った。6階のボタンを押したのも、閉じるボタンを押したのも原田だ。
めぐみは、上昇する不快感を押し込めて、普段より激しい嘔吐感を必死にこらえた。
ぽーん、と到着のブザーが鳴る。
「先に降りて、めぐみちゃん」
開くボタンを押してくれた原田が、めぐみの行動を促す。
声を出すのも苦痛になっためぐみは、頷きひとつで足を動かした。
視界が、歪む。
足元がふらついて、どうにもならなくて。
めぐみは、ぺたん、とその場に座り込んだ。
めぐみちゃん、と焦った声で名前を呼ぶ原田の声が聞こえた。
そこまでだった。

 「パパ……?」
「まだ勉強中だけど、そのうち教授みたいな医者になるつもり」
冷たい、という感覚に引き戻されて、めぐみは目を開ける。
「私……」
「寝てて。いくら本物の医者じゃなくても、風邪の症状くらい知ってるから。玄関の鍵と冷蔵庫勝手に開けたのは謝るけど、落ち着いたらめぐみちゃんにも謝ってもらうからね」
原田の声だ。優しいようで、厳しい。落ち着いた張りのある声。
柔らかな父の声とはまた違うけれど、めぐみに安堵をもたらす声だった。
「寝てて。また様子見に来るから」
強制するような、懇願するような。どちらとも取れない感情を読み取ったところまでは覚えていたが、すぐにめぐみの意識は眠りの底へ落ちて行った。




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