モノカキさんに30のお題 08.境界
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 別々の傘を差して、並んで歩く。
ひとつの傘を二人で……なんてものは、コンビニで300円出せば簡単に買えてしまう今の時代には流行らないのかな、とめぐみはぼんやり思った。
少し前を歩く原田の背中を、遠い景色のように眺める。
「……いきなり電話して、ごめん。番号知ってたのは、不可抗力というか、何と言うか」
突然の言葉に、どこかへ飛んでいた意識が引き戻される。
めぐみは、驚いて顔を上げ、立ち止まった原田の隣に並んだ。
「遊園地に、行ったときに。メールの送り方、教えてくれたよね?めぐみちゃんのアドレスも、一緒に」
そういえば、そうだったかもしれない。雨の降り出した午後、暇を持て余して、原田の携帯電話音痴振りを聞き、めぐみが教えたのだ。
実際に、自分のアドレスと、原田のアドレスを使って。
そこまで言われれば、自分のアドレスを知っているめぐみには気づく。
「メールの送り方知らなかったのに、メールアドレスのあの数字が番号だって、よく知ってましたね?」
苦笑交じりに先回りして答えると、原田はどう謝ればいいのか分からない、といった表情を向けてくる。
めぐみは、携帯電話を持たせてもらって3年ほどだ。その間、機種変更はしたものの番号は一切変えなかったし、アドレスも変えたことはなかった。めぐみの契約している会社は迷惑メールなんて滅多に届かないし、受信は無料。わざわざ手間をかけて変更の連絡をするのも面倒で、初期設定である電話番号を使ったアドレスのままなのだ。
「友達に、同じような奴がいて……それで、本当に差し迫ったとき、って思ってたんだけど……」
ごめん、と小さくなって謝る姿は、とても大学3回生には見えない。
よくて予備校生か、1回生だろう。体が小さいというわけではないのに、どうしてだろうか。
「怒ってるわけじゃないです、びっくりしてただけで。一度も電話したことなかったのに、一体どこから……って不思議で。助かりました。ありがとうございます」
笑いかけると、原田の肩から力が抜けるのが見えた。
「……よかった。嫌われたら、どうしようかと……っ」
しかし。原田の安堵に緩んだ表情は、己の口からこぼれ出てきた言葉によって即座に固まる。めぐみも、驚いてかすかに目を見開いた。まさか、原田の口からそんな言葉が聞けるとは思いもよらなかったからだ。
「先輩……?」
「ごめん、今の、聞かなかったことにしてくれないかな。今は、まだ」
めぐみの当然の疑問は、原田の固い口調に遮られる。
今は、まだ……ということは、どこかで、明かされるのだろうか。
答えのない問いを考える頭の片隅で、自分にも息づいている曖昧な感情を思い起こした。
それと、よく似ているのかもしれない。
友情とは言えない、けれど、愛情とも言いがたい曖昧な親愛の情。
もしかするとそれは、異性だから、という隔たりのせいかもしれないし、大学生と高校生、というやや開いた年齢の差のせいかもしれない。
微妙で、だからこそ境界線の見えない感情に揺らいでいるのは、自分だけではないのだろう。
不思議と、納得がいった。
胸の中にある『何か』の正体。
書けそうで書けない、ぐしゃぐしゃと丸めたくなる文章の続きのような。
本当なら簡単なはずなのに、どうしても解けない数学の計算のような。
どれだけ自分の中を探しても出て来ない、昔好きだった本のタイトルのような。
答えがあるようでまだ自分の中に存在しない、境界線のない感情。
越えられないのは当然だ。境界線は、まだ見当たらないのだから。
「先輩、あの、さっきのは聞かなかったことにしますから」
しばらくの空白の後に、ようやく聞こえてきためぐみの言葉は、原田を緊張から解放した。
「え、っと……自分で言っといてなんだけど、ホントに、いい?」
「だって先輩、今問い質しても答えなんてくれないんでしょう?」
非常に的を射ためぐみの問いに、原田が苦笑する。
「……うん、実は。答えたくても、答えられないって言うか」
「分かります。私もそんな感じだし」
「……へ?」
踏み越えるための境界線は、遠い。
「聞かなかったことにしますから。お買い物、付き合ってください。冷蔵庫の中身買いに行かないと、ご飯どころじゃないです」
呆然と立ちすくむ原田を置いて、一歩前へ踏み出した。
そこに境界線はないけれど。
「先輩?」
呼ぶ声に、原田は笑顔を返してくれるから。
「……荷物持ちでも何でもやらせていただきます」
水たまりを踏んで追いかけてくる原田を見上げて、悪戯っぽく笑う。
「それじゃ、お金払ってくれますか?荷物持ちいらないから」
「……めぐみちゃん、月の真ん中給料日前の苦学生に言う言葉じゃないよ、それは」
めぐみの差したクリーム色の傘を追いかけるように、紺色の傘が続く。
いつまでもこんな風にいられるだろうか……とめぐみはとりとめもなく考えて、すぐにやめた。
「今は、このままでいいのよ」
自分に言い聞かせるように、小さく、小さく呟いて。
追いついてきた紺色の傘と、並んで歩いた。




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