モノカキさんに30のお題 07.携帯電話
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 「……あーぁ……降ってきちゃったー」
借りていた料理雑誌を図書室へ返しに行ったその時間のロスが悪かったのだろうか。
めぐみは、人の気配のない正面玄関で靴を履き替えながら小さく呟く。ガラスを隔てた向こうでは、見上げた空からしとしとと静かに雨が降っている。いつもならグラウンドで練習している運動部の生徒も見なかったし、おそらくこのまま雨は降り続けるのだろう。
梅雨の湿度の高さとはまた違う……不愉快ではない、けれど決して心地よくもない複雑な胸の内に、めぐみは溜め息を吐き出した。
 6月が来ると同時に梅雨入りしたけれど、今日は大丈夫だと思ったのだ。朝目が覚めたら、窓から珍しく朝日が差し込んでいたから。
嬉しくなって思わず予報も見ずに鞄ひとつで出かけたら、案の定帰り際になって雨が降り始めた。梅雨の嫌なところはここだ。
「冷蔵庫の中身買い足しに行かなきゃいけないのに……」
今晩はよく食べるあの大学生のスパルタ教育を受ける曜日。
気合いを入れて、嵩張る折り畳みの傘も靴箱の上に置いて小さな鞄で来たというのに、これでは何の意味もない。
もうひとつ、溜め息がこぼれた。
さすがに、まだ仕事中だろう父を呼び出すわけにも行かないし、とポケットに無造作に入れてあった携帯電話を取り出す。二つ折りの携帯電話は可愛らしさからはかけ離れたダークシルバー。父が駄目なら、友達で誰か頼りになる人はいなかっただろうか、と誰かしらの顔を思い浮かべようとして……失敗した。
これは、濡れて帰るしかないかもしれない……そう思った瞬間。
突然手に握り締めていたそれが震え始め、着信を知らせるメロディーが流れ出した。驚いてカメラのそばについているディスプレイを覗き込むと、そこに表示されていたのは。
「……嘘、どうして」
慌てふためいて、もどかしくそれを開き、受話ボタンを押す。
耳元に流れてきた声は、少し荒い。
『や、めぐみちゃん。あの、今日、傘置いてかなかった?……今、学校向かってるんだけどまだいる?』
「せ、んぱい……」
自分が彼の番号を知っているのは、教わったからだ。最初に勉強を教えてもらったときにもらったメモも、まだ部屋においてある。原田が出かけてすぐに自分の携帯電話のメモリに登録したが、それでも捨てられなかった。
だから、自分の携帯電話のディスプレイに彼の名前が表示されるのは、ごくごく当たり前のこと。
けれど。
「どうして、私の番号知ってるんですか……?」
『……いや、それより先に、学校にいるかどうかを教えて欲しいんだけど。俺、運動は嫌いじゃないけど、雨の中傘差してあちこち走り回るのはそれほど得意じゃないから』
そういうことは、出来たら俺がめぐみちゃんのところにたどり着いてから聞いてほしいなぁ、と心底困ったような声で言われて、めぐみは慌てる。
「あ、その、学校です、正面玄関で、どうしようかなって迷ってたところで」
『それじゃあ、よかった。ちょうど正門が見えてきたところなんだよね……あぁ、いるいる。めぐみちゃーん』
めぐみがいるのは本館の正面玄関だが、そこからも原田が紺色の傘を差して、軽く手を振っているのが見えた。すぐに彼を見つけることが出来るのは、あたりに人影がないこともあるだろうが、携帯電話を強引に肩で支えているのも、めぐみの使っている淡いクリーム色の傘を持っているのも原因だろう。
『それじゃ、そこで待ってて。切るよ』
めぐみの返事を待つことなく通話を切った原田が、ジーンズのポケットに携帯電話を突っ込んで、走り出した。
もう目と鼻の先なのだし、相手の姿が確認できたんだから、そんなに急ぐことはないのに。
ついさっきまで他など見えないほどにめぐみを支配していた一つの疑問が、急にぼやけてくる。
真っ直ぐに自分へと向かってくる原田の姿を己の目で捉えただけで。
何だか待っていられなくて、めぐみは一歩外へと踏み出した。
「……せんぱ」
「江藤さん?」
呼び止められ、めぐみは驚いて声の方へと振り向く。
そこにいたのは、見覚えのあるクラスメートだった。
「……高木君、今から帰りなの?」
ほとんどの生徒は、自分のように残らず、雨が降る前にと慌てて帰ったのだろう。
だから、校内に残っている生徒なんて数えるほどだと思った。
めぐみが心底意外そうな表情をしていたため、クラスメート……高木は、苦笑交じりに応える。
「もしかして、気づいてなかった?オレ、図書委員なんだけど。江藤さん、自分で写した料理のレシピはちゃんととっておかなくちゃ」
雑誌に挟まってたんだよ、と苦笑混じりに差し出してくれたのは、確かに雑誌の中で試してみようとめぐみが自分の手でレシピを写したメモだった。
「うわっ、ご、ごめんね?!わざわざ持ってきてくれなくても、明日でよかったのに……ありがとう」
図書室から正面玄関までは、結構な距離がある。そこをわざわざ、少し前に出た自分を探して追いかけてきてくれたのだ。めぐみには礼を言うことしか出来ない。
いいんだよ、暇だし……と呟いた高木が、少し乱れた彼の栗色の髪を軽く指で梳いている。
一目見ただけで覚えてしまうような整った容姿を持っている彼のそばに、女の子がいないのは珍しいことだ。教室でいても、移動中でも、必ず女の子がそばにいるのに。
「迎えに来てもらったんだ。よかったね……お兄さん?」
視線で問いかけられて、めぐみはそちらへと目をやった。
原田が、いつの間にスピードを落としたのか、ゆっくりと歩いて玄関前までやってきている。
「お兄さん、とはちょっと違うの。迎えに来てもらったって言うか……来てくれた、だし。っと、じゃあ……手間かけさせてごめんなさい。また明日ね」
せっかく来てくれた原田を待たせるわけにはいかない。
受け取ったレシピを鞄の中に強引に収めると、めぐみはガラスの押戸を開けて外に出た。
目の前に立つ原田の表情は、やや硬い。
その理由が分からないまま、めぐみは差し出された傘を受け取った。




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