モノカキさんに30のお題 02.秘めごと
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 小児科医を目指す原田武士は、とても努力家で、真面目一辺倒で、心優しい人物である。
幼い頃、何と言う病名だったかはど忘れしてしまったが、大病を患っていた彼は、その時の主治医であった柔らかな物腰の小児科医に尊敬と大きな憧れを抱いた。
 将来はこんな風に、小さな子供の命を救って、生きる希望を持ってもらえるような小児科医になりたい……病を克服して退院するとき、彼はそう心に誓った。
 それから、何年間かの努力の積み重ねによって、都内でも有数のトップレベルと名高い高校への合格を手にした。その高校は、武士の目標とする有名大学への進学には有利だったが、私立だった。両親に金銭的な苦労をかけるのも憚られ、彼は奨学生として常に学年首席を保ちながら、小児科医を目指すための勉強を続けた。
 しかし、高校1年も終わりに近づいた3月のある日。20年目の結婚記念日にそろって旅行へと出かけた両親が、交通事故で他界してしまったのだ。
母方の祖父母はすでに他界していたし、父方の祖父母、伯父叔母はそろって九州に住んでいる。父方の親族は、こちらで一緒に住まないかと優しい言葉をかけてはくれたが、夢を叶えるためにはこの場所の方がずっと動きやすい。
何より、慣れ親しんだ土地を、両親と過ごした時間を置いて、知らない土地へと移り住む勇気は、その当時の彼になかった。……しかも、父の地元は九州でも方言が色濃く残るちょっとした田舎だったのだ。突然の喪失を癒すには最適かもしれないが、長年思い描いた夢を捨ててしまうには、彼はまだ若すぎた。
 そして、彼は努力を続けた。
最低限の生活費を両親の遺した多いとは言えない遺産から引き出し、ただひたすらに夢を求めて勉学に励んだ。血の滲むような彼の努力の結果は、超難関と名高い現在の大学の、それも医学部への合格切符だった。
 とは言え、さすがに大学はたくさんの資金を必要とする。
残った遺産を使って、学費や教科書、参考書を買い揃えると、それは底をついた。
それでも彼は努力を続け、2回生になるときに、大学の奨学生として学費の免除を受けることが出来た。それでも必要になる経費は、すべてアルバイトによって賄った。
深夜のコンビニ店員、休日限りの引越し会社のスタッフ、家庭教師、道路の交通整理……可能な限りのアルバイトを掛け持ちしながら、それでも彼は努力を続けた。
また、人間関係の複雑な大学のゼミであっても、彼の努力と温和な人柄は、周囲の人間を和ませ、注目を集めた。いつしかゼミの中心人物となっていた彼はこの春、夢を抱くきっかけとなった小児科医の次に大きな尊敬を寄せている教授から、3年のゼミ長をやって欲しいと話を持ちかけられたのだ。もちろん、謹んでお受けした。
 たくさんのアルバイトの掛け持ちと、ゼミ長という立場、更に専門的になっていく勉学。
何事にも一生懸命な性格や様々な要因が積み重なり、そして彼は……つい先程、教授の目の前で意識を失った。

 四人家族でも広かろうという食卓に並べた料理の数々は、父に詰めたお弁当の中身を差し引いても現在テーブルについている人数の倍以上はあろうかという量だった。
それが、気がつけばもう一人前もありはしない。栄養失調の青年の胃袋は無限大だった。
「すっごーい!!原田さん、それって呆れるより先に尊敬しちゃいますよ!」
「いや、そんな尊敬されても困るんだけどさ。結局無理しすぎで倒れるなんてカッコ悪い結果になったんだし」
料理を口に運ぶ合間合間に語られた原田の身の上話を一通り聞いためぐみは、驚いて声も出なかった。
そこまで一生懸命に追いかけていける夢を持っている……その事実だけでもめぐみにとっては大きな衝撃だった。
自分がぼんやりと描いている将来像を、そこまでして追い求めることが出来るかと考えてみたが、その先には何もなかった。白い霧で包まれて、覗き見ることは出来ない。
……おそらく原田には、彼の目の前に広がる道も風景も、その先にある何かも、はっきりと見えているのだろう。
「原田さんは、すごいな……私、そんな風に未来のビジョンなんてはっきりしてなくて、頼りなくてふわふわしてて、ちっとも分からないのに」
この頼りない手で、自分の求めるものを掴み取れるだろうか。地元でも一、二を争う進学校の2年生……そんなめぐみの立場は、安定しているようで実に不安定だ。
覆せない意志の強さに、めぐみは溜め息をついた。そんな彼女に、原田は首を振る。
「そうでもないよ。医学部はほとんどの人がそうやって目標を持って入ってきてるから、年月は関係ない。目標に向かっていく気持ちの問題で……まだ高2なら間に合うんじゃない?……えぇと」
名を呼びあぐねたのだろう、原田の表情が困惑に変わる。めぐみは、ちょっと笑って名前でいいです、と答えた。
「じゃあ……めぐみちゃん」
穏やかに目を細めた優しい笑い方。
その表情にめぐみはどきりとする。大好きな父の、柔らかな笑顔によく似たそれは、懐かしさと親しみを感じさせて……めぐみのほんのかすかに残っていた警戒心までも打ち砕いてしまった。めぐみは、意を決して口を開く。
「あのっ、よかったら……しばらく、うちでご飯食べて行きませんか?!」
「え?ご飯?い、いや、でも、そんな何度もお世話になるわけには……」
唐突な申し出に、原田は驚いたように目を瞬いて、めぐみを見つめ返す。
やや興奮した雰囲気のめぐみは、握った拳を振って主張した。
「あの、ご飯っていうのは建前で……実は私、看護学校に行きたいんです!!でも、やっぱりどんな風に勉強していいのか分からないし、原田さんなら今そういう勉強してるわけだから、少しは普通の塾の先生より教え方も上手いんじゃないかって思って……アルバイトの合間でいいんです!!毎日、ご飯の後の30分ぐらいでいいですから、家庭教師、してもらえませんか?!」
あまりといえばあまりの懇願に、原田が苦笑と困惑をない交ぜにして首を傾げる。
「いや、でも、ほら、めぐみちゃんは、まだ高2でしょ?そんな、焦らなくても……」
「でも、原田さんはもっと早くから準備してあったんですよね!!」
「へ?あの、それはまぁその……」
「私、どうしても看護婦になりたいんです!!」
懸命なめぐみの言葉に、口ごもった原田の表情が、ゆっくりと諦めの微笑みに変わっていく。
それにあわせて、めぐみの表情も明るく輝き出した。
「……それを、教授が許してくれたらね?」
「はい!!分かってます、絶対ですよ!!」
満面の笑顔でダイニングチェアから立ち上がっためぐみは、お布団敷いてきますね、と身を翻した。
素早いめぐみの動作に取り残された原田は、ただ笑うしかない。
早まってしまっただろうか。
すでに大量のバイトを掛け持っている原田には、食事をご馳走になる余裕があるかどうかも分からない。しかし、恩師の娘さんがあれほどまでに必死になるのだ……一肌脱がずに、いられないだろう。
そのような内面の葛藤はすべて自分の中に秘めて。
原田は、テーブルに残っているエビのチリソース和えをひとつ摘み上げた。




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