天使講座2・衣食住


 昨日はあんなにも不安定な感情を露にしていた青年が、今日はなぜか、不気味なほどの微笑みを浮かべて待っていた。
「ようこそおいでくださいました。お待ちしていたんですよ。さ、お席にどうぞ」
昨日と変わらぬ、甘く告げる少女の声は優しく穏やかだが、その表情は、どこか怯えたような、あまり人と近づきたくないような……
目の前、にやにやと笑み崩れる青年の視線がどこにあるのだろうと、それを追っていった先に見つけたのは、濃紅の花びら。刻み付けられた烙印のように、少女は淡い悲しみが宿る瞳を、ゆっくりと瞬いた。
「今日は、私たちの衣食住、でしたね。これは……あまり変わりませんわ」
そばのワゴンに乗った、ティーコジーがかかったポット。
くびれた硝子の中でさらりと落ちた白い砂に、レイエルはコジーを取って、ポットを持ち上げる。
テーブルの上の、まだほんのりと湯気を上げるカップ3つに、ストレーナー片手で紅茶を注いでいく。
「例えば、このお茶。……あ、でもこれは、私が裏の小さな菜園で育てたハーブのお茶ですから、普通の紅茶とは違うんですけど……紅茶も、紅茶の苗を育てて、それを収穫して、加工して。そういうのを、昨日お話した養成所で実習の一環として行うそうです。私はそこを出てないから分からないんですが、そこでは牛や豚、鶏も育てていて、卵やお肉を配ってるんです。もちろん、数に限りがありますから、毎日食べられるものじゃないはずなんですが……」
「俺は、いいの。ちゃんと違う種類の持ってくるだろ?」
少女の疑わしげな視線もなんのその、青年は注がれたカップのソーサーをすいっと引き寄せる。
そのままカップを持ち上げ、中身を口に運びながら、美味いな、と少女に微笑みかける。
「だって、私お肉は食べないんですもの。お料理するだけで、本当に味見してないんですよ?いつも大丈夫ですか?」
優しい笑顔に、レイエルはふんわりと頬を赤くし、ほんの少し、拗ねたように唇を尖らせる。
「美味いって言ってるだろ?俺の味覚を信用しないのか?」
「そ、そうじゃなくって!」
「お前、魚か野菜だけだもんな、食べるの。あぁそうだ、今度、海の魚が手に入ることになったから、もって来てやるな」
その一言だけで、レイエルの表情は、ぱぁっと花開くように明るくなる。
「本当ですか?うわぁ、嬉しい!海のお魚なんて、いつぶりかしら?」
今にもくるくると踊り出してしまいそうなほど浮かれている少女の姿に、怪訝そうな表情をしていたのだろう、ウミエルが苦笑して、答えてくれる。
「この天界に、海はないんだ。当たり前だがな。淡水の魚は、まぁ、レイエルの家の前に巨大な泉があるから分かってもらえると思うんだが。海水魚を手に入れるためには、海のある地界に下りて獲ってくるか、もしくは、養成所が転移の実習を行う時だけ、になる。すげぇだろ?地界から、一人一人が海の魚を転移させるんだ。馬鹿みたいだけど、それが俺たちの食生活を担ってんだから……養成所の実習は、ホントに生活と直結したものが多い」
「養成所のお話は、また別の機会に。そんな風に、原料は調達してます。調理器具は、お鍋とか、フライパンとか。大抵のものはあります。あと、オーブンは炭火で焼きます。火加減が難しくて、大変なんですよ」
ウミエル様は、この努力知りませんけどね、と微笑みかけられて、青年はほんの少し不満そうに、ハーブティーをすすった。
「普段に着るような服は、ほとんどが綿です。もしくは、絹。絹は、あまり使いませんけど」
「祭事用の服とか、俺の軍服とか。そういう、晴れ着っていうのか?それは、絹がほとんどだ。どうでもいいけど、罪を犯したあと、捕まったら、収容所に入れられるんだが、そこで着る服……布?は麻だぞ。あと、天界には四季がないから、地界のように袖のない服や、分厚い毛皮のコートを着ることはない。毛皮なんて、絨緞とかの毛織物になったり、なめされて、ソファに張られたりするくらいだ」
この椅子に張られてるのは、ビロードです、と少女がそっと、その生地を撫でた。
「最後は?住……そうだな、木造建築だ。後、それに漆喰を塗って。レンガも使われる。道は、レンガだ。床は大抵フローリングだな。あぁ、素焼きのタイルもあるが、素焼きのままは滅多に使われない。塗料を塗ったものが一般的だぞ」
「私のお家は、街にはないんです。外れの森から、深く入ったところに、大きな泉があって少し開けているので、林に隠れるように立っているお家が、ここです」
「普段レイエルは、上からじゃ見えないように結界を張ってる。だから、俺の部下は俺がどこに隠れてても分からないって寸法。……まぁ、緊急連絡用に二人くらい、知ってるけどさ」
「ウミエル様、ここが知られたら困るから、絶対に会議とか、お仕事には遅れないんですよ」
「たりめーだ。知られたら、お前が危ないだろ?」
こつん、と額に拳をぶつけられて、その事実に驚いたのではなく、彼の発言に驚いたらしく、少女は目を瞬いて、怪訝そうな顔だ。
わけが分からない、といった表情で見つめてくるレイエルに、ウミエルは微笑んで、その肩を抱く。
「分からないんだろう?いいから、待ってろ。ベッドで心行くまで訓えてやるから」
まるで蕩けてしまったような、だらしない笑み。
「さて、今日の予定は、衣食住だったな。ノルマ達成、質問は明日。さ、邪魔者は帰った帰ったー♪」
「なんで……どうしてこうなるんですかーっ?!」
ひょい、と軽く抱き上げられてしまい、レイエルは身動き取れないまま、笑みの消えないウミエルと共に、部屋を後にする。
縋りつくような、最後の希望を託したような瞳で見つめられたが、それを振り切って部屋を出た。
いくら少女が憐れでも、青年に盾突く気には、毛頭なれなかった。