女王と冠
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 とても、静かな夜だ。
梢を揺らす風さえ許されない、静かな、静か過ぎる夜。
だが、クラウンにとって、その静けさは味方だ。
闇に身を溶かすことなど造作もない。
派手好きな師匠であれば、こうも上手くいかないのだろうが、クラウンは神経を使って行使する術が得意だった。
 今日のような夜は、クラウンの狩るべきものが動きやすい。
ここ数日、片時も離れたくない少女の元から離れ、ギルドからの命に従っているのは、その命がクラウンの専門となりつつある命だったからだ。
命の危険を伴う仕事。けれどクラウンは、その仕事をさほど嫌ってはいない。
おそらく、向いているのだろう。人にも相性があるように、仕事とも相性があるのだ。
少なくとも、どこかへ出向いて、人と関わる仕事よりはずっと楽だと、クラウンは思っている。
ただ、クラウンにこの仕事が回ってきたとき、烈火のごとく怒り狂った師匠の表情は、それだけ大切にされていたことを確信させる激しさで、心地よかったけれど。
今となっては進んでこの手の命を回してくる彼の信頼を裏切らないよう、クラウンは気を引き締めた。
その瞬間。
 空気が、熱を孕んで弾けた。
「来たか……亜竜めが」
今までの静けさを微塵に砕く、激しい風と熱。
息を詰まらせるような灼熱の大気と共に現れたのは、赤黒い身体をゆっくりとくねらせる亜竜だ。
獲物を探して、悠然と舞うその体長は、クラウンなど一飲みにしてしまえるほど大きい。
 人が力を込めて生み出す駄竜とは比にならない、無尽蔵の炎や熱風に、クラウンは低く声を漏らす。
「大地に生み出され、我ら人を根絶やすことを目的とする竜害……俺の独占依頼になるとは思っても見なかったが」
儚く舞い散る火の粉の一片でさえ、吸い込めば焼け爛れてしまうだろう肺に、わずかな呼気だけを残して。
クラウンは、身を溶かした闇から滑り出て、宙へと舞い上がった。
 片手には、一振りの金属の杖。先端にあしらわれた金属板と宝玉が、ぶつかりあって甲高い音色をこぼす。それを軽く振り抜いて、迫り来る亜竜を前に、瞳を閉じる。
 浮かび上がるビジョンは、葉さえ揺らすことの出来ない、静かな夜。
その中に溶け消えていく、赤の焔。

 ――目を開いた。
風になぶられる髪が耳元でざわざわと鳴り、迫りくる火の粉をすり抜けて流れる。
闇などすでにそこにはなく、目の前には、どす黒い竜の口。
今にも飲み込まれそうなクラウンの身体に向かってくる亜竜へと、クラウンは、杖を向けた。
「大地に、還れ」
肺に残した最後の呼気に乗せて発した、力ある言葉。
それは空気を震わせ、亜竜の発するざわめきさえ乗り越え、そして。
 火の亜竜が、溶け消えた。
風が、そのときを待っていたかのようにぴたりと止む。
そこに広がっているのは、クラウンが瞼の裏に思い描いたビジョンそのままの光景だ。
 静かな夜に、溶け消えようとする焔。それは、闇に浮かぶ小さな朱の花。
それさえもやがて、辛うじて目に映るほどの蕾となり、じわりと、滲むように消えた。
 あとに残るのは、ただ、静かな夜。
亜竜がやってくる前となんら変わらない、風一筋さえも流れない、静か過ぎる夜。
 亜竜の宴は、わずかな余韻さえ残さず終焉を迎えた。
クラウンは、いつもそれを見届ける。
大地の嘆きを受け止め、けれど、それによって国が荒らされるのは、困るから。
どうしようもない矛盾に苛まれながら、クラウンは、その場を後にした。
帰る場所を目指して、風を呼び、溶ける。


 そっと開いた瞳が映すのは、まるで、夢のような朝。
朝食の準備も、寝起きの悪い師匠を起こす必要もない、穏やかな朝。
あの頃のことが懐かしくもあったが、今と比較は出来ない。
今この場所には、クラウンにとって何よりも優先されるべき存在があるのだ。
求めればその姿を見つけられる距離に。それは何と……幸福なことか。
ギルドから離れていることよりも、危険な命を申し付かることよりも、彼女がそばにあることは、何よりも大切なこと。
もはや住み慣れた王城の一室で、クラウンは、寝台から身を起こした。

 クラウンは、この国の主である一人の少女を、この上なく大切に思っている。
それは、恋や愛などの、時に不確かな感情ではなく、クラウンにとってただひとつの大切な存在へ向ける、正も負も含めた全ての感情……恋情であり愛情であり、また思慕であり憐憫でもある強く、穏やかで、けれど激しい想いだ。
 胸に生まれる感情のすべては、彼女に向けられて息づき、けれど、言葉になることはなく、胸の内へと蓄積される。
 昨夜までの数日間を外で過ごしたことを証明するように、脱ぎ捨てられた上着を拾い上げ、傍らの椅子の背にかける。
クローゼットにつるされている、新しい服を取り出して、袖を通した。
窓から窺う空は青い。昨夜の出来事など幻だと言いたくなるほど、その青は鮮やかで……ただ変わらず、そこにある。

「クラウン!おはよう、久しぶりね。ギルドのお仕事は終わったの?」
ぱたぱたと、軽やかな足音に振り返った。
そこにいるのは、いつも彼女だ。間違えるはずもない。
クラウンは、彼女がこうして近づいてきていると気配で感じながら、声をかけてくれるのを待っているのだから。
「あぁ、おはよう……リィ」
彼女はいつも、こうして美しい。
世界が変わらず存在するのと同じように、彼女も、こうして確かにこの場所に存在する。
胸に折り重なる様々な気持ちは、言葉にならずにただ静かに募り、わずかな表情として表される。
微笑んで、目の前に存在する距離を埋めるべく、一歩を踏み出して。
――荒々しく近づいてくる、無粋な足音に眉を顰めた。
「あら、レイジスかしら」
彼女は微笑み、その姿を探して辺りを見回す。
今し方まで明るかった気分が、途端にどんよりと曇り始めるのを感じた。
「リーザ様!おはようございます!今日もいい朝ですね……ってお前、何でこんなところにっ……!」
ばたばた、どすどす、と回廊を渡ってきたのは、見慣れた金髪、青い瞳の。
「朝っぱらからうるさい奴だな。お前のせいで途端に気分が悪くなった」
「久し振りに帰ってきたかと思ったら……相変わらずその性格は変わってないな!何が言いたいんだ?!」
低い声が耳に突き刺さる。
わざと、苛立たせるために溜め息をついてやった。
「思考能力のない体力馬鹿にも分かるくらいそのままの意味だが」
「――っクラウン!!」
「怒鳴るしか能がないのかお前は」
「お前だって口でしか俺に勝てないからそうやってるんだろっ!!俺には分かる!」
「悔しかったら言い負かしてみろ」
「そんな無駄なことやるもんか!」
「自覚があるなら少し黙れ」
「そういう物言いがむかつくんだっ!!」
顔を真っ赤にして怒る騎士。この男は、大切な彼女を……この国の女王を守る一柱。
この国の誰もが讃える『双璧』の一方。
このようなやり取りばかりで、讃えられるようなことは何もない、その事実が少し胸に痛いけれど。
「二人とも、しばらく会えなかったから寂しかったのね。私に構わず好きなだけやって頂戴」
こうして彼女が微笑むから、それでいいのだ。
クラウンにとっても、きっと、この騎士にとっても。
彼女はいつまでも、変わらず最も優先されるべき主なのだから。




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女王と騎士と魔術師と。外伝6