Plumage Legend 〜絶佳の奇才〜番外編 風の色
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 舞い上がった空に流れる、風の色。
翼に絡み、身体を通り過ぎていくきらめき。
世界が色づいても、決して見えなかったその色さえ、確かに掴めた気がしたのに……。

 「……んだ……夢か」
ゆっくり身体を起こすと、そこはいつもの場所。
そっと、空間のあいた傍らのシーツを撫でる。
リシュに出会って、一年と半分。リシュがこの部屋で眠るようになってから新調した、広いベッドの隙間には、リシュがいたときのぬくもりさえ残っていない。俺たちの曖昧な関係が明確になって、既成事実も作ったってのに、相変わらず、リシュの早起きは続く。
 窓の外から入ってくる風が、俺の髪を揺らした。
開け放たれた窓から、にぎやかな声がいくつも飛び込んでくる。街が朝から騒々しいのは、今日行われる祭りの準備のせいだろう。
夢の中では確かに見えた風の色は、今はもう忘れられて、形もない。緩やかな気の流れだけが、その存在を知らしめる。
何も握られていない手の平に、俺は視線を落とした。
「サイ?まだ寝てるの……?」
小さく、木のきしむ音。
声に視線を上げれば、そこにはリシュが不思議なものを見るような目つきで俺の様子を伺っていた。
俺の髪を揺らした風が、ふわりとリシュの髪を撫ぜた。
翡翠色の瞳がくすぐったそうに揺れて、頬がふんわりと赤くなる。乱された髪をかき上げる左手の中指には、わずかな光さえ反射する紅玉の指輪が嵌められていた。きっちりと纏った服の色は、淡い淡い桜色。贅沢に寄せられたスカートのひだから、素直に伸びた下肢が覗く。
「あ、あの、サイ?ねぇ、どうしたの?私、何かついてる?」
言われて、はっと我に返る。俺とリシュを乱した風は、すでに立ち消えてどこにも見当たらない。
「いや……幸せだなと、思って」
「あら、私も幸せよ」
そう言って可愛らしく微笑むリシュを、手招いた。
フローリングの床に、軽い足音を響かせて近づいてくるリシュに、ふと微笑んだ。
「なぁに?何をたくらんでるのかしら」
「……分かってるのに、お前は拒絶しないから」
何、と小首を傾げたリシュの腰に、腕を回して、力任せに引き寄せる。
起こしていた身体をリシュの重みを受け流すように倒して、小さく悲鳴を上げたリシュを、今朝までは確かにいたはずの場所へ降ろした。向かい合って寝転んで。あっけに取られたように呆然とするリシュに、笑う。
「……やだ、もう。何するのよサイ、酷いわ。まだ寝ぼけてるんじゃないでしょうね」
「起きたらいつも隣にお前がいない。お前がいないと、途端に不安になるんだ。力が暴走したら、どうしよう……って」
俺は知っている。これがリシュを傷つける言葉だと。
案の定、リシュはきゅっと唇を噛んでわずかに目を伏せた。
いつまでたっても、変わらないリシュの後悔。俺の中で過去になって、どうでもよくなっても、きっとリシュは違うのだろう。
だから、ゆっくりと開いたリシュの唇を、一言さえ漏らす間もなく塞いでしまう。
どうせ返ってくるのは、謝罪の言葉だけ。それなら、聞く必要もない。
リシュが息を呑む音。驚きと戸惑いが入り混じったような、たどたどしい反応。
無理やりその呼気を吸い上げてから、ゆっくり解放してやる。
「ん、や、どうして、サイ……?」
「お前がそうやって後悔するから、俺はお前を失わないで済む。お前が俺の元から離れたいと思っても、俺は一生、後悔でお前を縛りつけられる。お前に俺への想いがなくなったとしても、お前は俺から逃げ出せない」
不安を宿した、揺れる瞳。そこにある感情が負のものであったとしても、リシュの翡翠の瞳は綺麗だ。吸い込まれてしまいたくなるほど。
「そんなこと、しないわ」
「それでも、俺は怖いから。お前のことに関してだけは、絶対、なんて言葉、存在しないんだよ」
泣き出してしまいそうな、潤んだ瞳。額に落ちる髪をそっとかき上げて、そこに唇を落とす。
俺とリシュが『鍵』の関係で、結びつかなければならない色を継ぐ者であったとしても。
俺たちはそのために一緒にいるわけじゃない。
一緒にいたいからこうしている。だから……不安になる。
「愛してる」
触れることで想いが伝われば……リシュの悲しみは消えるだろうか。
腰に回した腕をさらに引き寄せて、強く抱き締めた。
「……え、えっと、あの、さ、サイ?ねぇ、は、離して?」
「二度寝……」
きっとこうして捕まえていれば、リシュは逃げられない。
するりと身体を滑らせ、胸元に手を伸ばす。
「や、ちょっとサイっ」
手探りで辿り着いた先から、留め具の外れる小さな音。
「やだっ、もう!」
白くすべらかな皮膚に頬を寄せて。
再び意識が深いところへと沈んでいく。さらりと髪を梳く、リシュの指を感じた気がした。

 ……確かに、身勝手なことをしたのは俺だと思う。
だが、確か俺はここまで脱がせたりしなかったはず。
目を開けると、リシュはスリップ一枚でそこに横たわっていた。
「……え……と。リシュ?」
「ん……サイ、起きた?」
「あ、あぁ」
「もう、いきなり眠っちゃうなんて。酷いわ。せっかくおめかししてたのよ?あのまま寝たりしたら、皺になるじゃない。お手入れ、大変なんだから」
言われて、ようやく思い出した。
「悪い……祭りに出かける約束してたんだよな。すっかり忘れてた」
「そんなことじゃないかと思ってたわ。いいの、まだお昼だから。ご飯食べたら出かけましょう?……いけない、スコーンほったらかしで来ちゃった」
わたわたとリシュが、ゆるんだ俺の腕の中からまろびでた。
そのまま……薄い下着姿のまま、部屋を出て行ってしまう。
……まぁ、いいか。どうせ俺しかいないわけだしな。
これも、同棲の醍醐味なのかもしれない。
最近腐れてきた俺の思考は、きっとリシュの父親から受け継いだものなのだと、勝手に思い込むことにした。
 食事を済ませて、俺たちは街へ出た。
さすがに食事を始める前にリシュは自分の状態に気づいて、大騒ぎしながら服を着ていたが、それも俺にとっては色々な意味で有意義な時間だった。
同棲がこんなに面白いものだとはな。半年経って、改めて実感する。
「リシュ、本当によかったのか?」
「何が?」
無邪気に聞き返すリシュへ、どう答えればいいのか、思わず言葉が詰まった。
「いや……何が、って」
どう説明するか、と言葉を選びあぐねていたら、ちょうどいいところにカモが来た。いや、この場合は俺たちがカモなのか?
……なんにせよ、説明する手間は省けたわけだ。
「うわぁっ、鬼きょーかんとアリシエルせんせだ」
「噂には聞いてたけどホントだったんだなっ」
すごい勢いで駆け寄ってきたのは、ファーストグレードのちびどもだ。
「ほらな。鬱陶しい奴らに絡まれないわけがないんだ」
「サイは、嫌?……私は、結構嬉しいけれど」
溜め息をついた俺の表情を、覗き込むようにリシュが言う。
その顔には穏やかな笑みが浮かんでいて、リシュが本当に気にしていないのだと知らしめる。教官になってすぐの頃は、色々と嫌がらせやら冷やかしやらにあったものだが、いくら馬鹿でも分かってきたらしい。
俺とリシュが、本当に一緒にいなければならないのだと。
 俺はどの学年と言わずあちこちに顔を出しているが、リシュは基本的に下の学年を受け持っている。俺にとっては属性が違うだけでどれも同じ顔なんだが、きっとリシュはその違いが分かるんだろう。一人一人に声をかけて挨拶をしているところから見て、確実に。
「せんせーっ、この人の何がどういいんですかっ!!」
ちびがきどもは、思考レベルも低いらしい。思わず溜め息をついて、視線を逸らした。腫れ物に触るようにやや距離を空けて通り過ぎていく大人たちと、俺たちのやり取りを聞き耳立てて見守る養成所の生徒と。
……天界は平和だ。
「何が、って……全部よ?私はサイの全部が好きなの」
あまりにも率直過ぎるリシュの言葉に、慌てて振り返った。周りに気を回している余裕はない。まさかこんな風に言われるとは、思ってもみなかったから。
「熱烈告白ー」
「こんな目つき悪いおっさんでも?」
「ふふ、そうね、目つきが悪くても。サイはとても優しいの」
そっとこちらの腕にリシュの手が添えられた。知っている。それは、リシュの抱く過去の証。
目の前にいる彼らに、触れさせないようにするための小さな牽制。
「嘘だーっこの間とかもすごい勢いで拳骨食らったもん!」
「お前らが基礎訓練をサボろうとしたからだろう」
気づいていないちびたちを、無理やり気づかせるために行動に移す。
ささやかな力で触れてきていたリシュの身体を、ぐいと引き寄せる。
「きゃっ」
「お前ら、いいかげん分かれよ。大人の時間を邪魔するな」
「偉そう!」
「アリシエルせんせ、絶対騙されてる!!」
失礼な言葉を口々にまくし立てるそいつらの額を、ほんの少し力を込めた指先で弾いてやった。
「いってー!!」
「鬼きょーかん!!」
「こんなところでまで偉ぶるな!」
「そういう言葉は、俺に勝てるようになってから言え」
さらにうるさくなったちびに、堪えきれない笑いがこみ上げてきた。
知らないうちに、教官として溶け込み、認められていること。
それが、酷く嬉しかった。
「じゃーねアリシエルせんせ、また明日!」
「鬼きょーかんに虐められんなよー」
「お前ら今度の授業覚えとけ」
きゃらきゃらと笑いながら走り去った後ろ姿に、捨て台詞を投げてみたものの。
「サイ、あの子たちのクラス知らないでしょう」
リシュに笑いながら指摘されて、俺は答えに詰まる。
「……とりあえず脅しをかけておこうかと」
「鬼教官の面目躍如ね」
「これくらいで鬼教官なんぞと呼ばれてたまるか」
俺の答えに、リシュが、笑う。
それでいい。リシュが笑っていてくれるなら。
するりと人の合間を縫って流れた風に、髪を揺らされる。
その心地よさにふと身を任せ、瞼を伏せた。
傍らには、リシュの優しい気配。
「……サイになら、騙されてもいいかなって、思ったの」
「え?」
すっと、周囲の喧騒が引いた。
リシュの声が、言葉が、強く意識に訴えかける。
「だから、ね?私、サイになら騙されても、何されてもいいって、そう思うの。ずっと前から。私を必要としてくれた、あのときから」
……強く、風が吹いた。
リシュの背中まで伸びた髪が、風に巻き上げられて踊る。
「私は、サイの全部を私の全部で愛するって、決めてるの。だから……そんな風に、不安にならないで。私、どこにも行かない」
微笑んだリシュの、翡翠の瞳。吸い込まれるような錯覚と、間に流れた風。
そして、同時に見えた。
踊り過ぎ去るその風の色。
まるで、リシュの瞳のように鮮烈な翡翠。
翠のきらめきが溶け込んだような、緩やかな流れが纏わりつき、すぐにほどけて消えてしまう。
大気に、翡翠の風がすっかり溶け込んでしまってから、ようやく……周囲の音が戻ってきた。
「サイ?どうかした?やだ、何か言って頂戴」
困惑に揺れる翡翠の瞳は、そこに風を凝縮させて、閉じ込めたようで。
「風は……」
「え?」
「風は、リシュと同じ色だった」
あぁ、そうだ。
当たり前といえば、当たり前のことだ。
「リシュは、俺にとっては風そのものだから」
しなやかに激しく俺へと滑り込んできて、凝り固まった胸の内を優しく解いた薫風。
それは確かに、リシュだったのだから。
誰もに吹く風は。ただ、俺の元には翡翠の奔流としてやってくる。
だがそれは、リシュが風と同じ色なのではなくて。
風が、リシュと同じ色だった、ただそれだけのこと。

 昔、風の色が見えると言った者がいたらしい。
そいつは、風を何色に感じたのだろう。
ただ、俺が確かに言えることは。
俺にとっての風が、生涯変わることのない鮮やかな翡翠に違いないということだけ。




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