俺の冬休みは、たった一通の、上品な白い封筒に入った招待状によって、もう、何と言葉にしていいのか分からない……ぶっちゃけグロッキーな日々になった。



招待状



 そのものは別に問題ないんだ、うん。ただ、それが俺の生死を左右するほどの強烈人格を持つ『お姉さま』から来たもんじゃなければ。
それに加えてあの馬鹿がお姉さまのそばにいなけりゃ。
内容がもっとまともなものであれば。
駄目だ……死ねる……。
俺の人生は、年明けどころかクリスマス1週間前に燃え尽きた。

 「ねー真穂ちゃん、もうイギリスに行く準備した?」
学校の帰りにそういう心臓に悪いことを言うんじゃありません。
隣を並んで歩く美少女にさらりと告げられた言葉に、ぞっとする。俺は心臓が喉から飛び出たいと喚くのを必死に押さえつけて、声をひねり出した。
「な……何のことかなぁ?」
「真穂ちゃんにだって、お姉ちゃんから招待状来たんでしょ?行かないの?」
……こいつは、古城美希。簡単に、端的に表現すれば、ほわほわでふわふわで鈍感。
斜め向かいの家に住んでる、物心ついたときからの俺の幼馴染。今高2だから、大体十五年くらいの付き合いか。外見はいちいち言葉にするのも面倒くさいくらい可愛い。天然の茶色いセミロングの髪に、顔は綺麗というよりは、幼い雰囲気の可愛らしさがある。いつもにこにこふわふわしてて、その表情にぴったりなくらい性格も天然、猛烈に保護欲を駆り立てる無敵の鈍感美少女だ。
無邪気に聞いてくる美希に罪はない。あぁ、ない。ないよ。ないけどさ。
……やっぱり無邪気はある意味罪だ畜生!!
 まぁ、どう足掻いてもあの招待状は無視できない。
無視したところで先の短い生が待っているだけ。どうしようもない。
「……空が青いなぁ……」
「飛行機乗らなきゃいけないから、出発の日もこんな青空だといいねぇ」
駄目だ……常套手段の逃避も通用しねぇんだ美希には!
隣で「楽しみだなぁ、お姉ちゃんに色んなところ連れてってもらおうね」と大はしゃぎの美希に、俺はどうしようもなく引きつった笑みを浮かべた。

 散々美希に浮ついた心の内を満面の笑顔で聞かされた後、美希が自宅の玄関へ入る姿を見送って、俺は自分の家の門を開けた。自然と溜め息が出る。
玄関の鍵を開けて、誰もいない家に自分の足音だけが響くのを聞きながら、二階への階段を上がって部屋に入る。無愛想な、明るい色のない部屋。肩に引っ掛けていた鞄をぽんと放り投げて、ベージュのラグの上で胡坐をかく。
 俺の名前は、片桐真穂。
……「あれ?」って誰か一人は思っただろ。少なくとも一人は思ったよな?
いや、いないならいないで越したことねぇんだが……。
これでも正真正銘性別は女。男になりたいとかそういうんではない。色々あって、一人称は自然と『俺』。性格もどっちかっつーと、さばさばした方だろう。加えて、なまじ小さい頃から空手なんか習ってたもんだから、弱い男は大嫌い。いや、中途半端に強い男も、女性に対して不逞な男も、八方美人に気の多い男も……あー、簡単に言うと男全般は嫌い。男はどうでもいい。
 それだけなら、まぁ、少なくてもいるはずなんだが……俺はその分女性にものすごく弱い。どのくらい弱いかって言われると、そうだなー……例えば自分に用事があってもあちこち引きずりまわされるのを断れないとか、頼み事されたら俺に出来ることならって思わず引き受けちまうとか。今ではなんか、男前だの紳士だのと言われてるあたりどうしようかと……。相手が女性じゃきつくは言えないし。
もしかしなくても、損な身の上かもしれない。俺って。
部屋には旅行用のトランクがひとつ。黒一色の、愛想も何もない、男物にも見えるそれ。今まで一度も使ったことないこれを使うことになるとは思わなかったが……お姉さまの『招待状』では、いや、『召集命令』では断ることなんてしたくても出来ない。
内容が、あの馬鹿の誕生日パーティーをするから来いってものでも、お姉さまの名前で届いたからには断るって選択肢はない。
あー……鬱だ。
にやり笑いの馬鹿の顔が脳裏をよぎって、俺はそれを打ち消すようにトランクを開いた。
行き先はイギリス。お姉さまと馬鹿の育った、俺にとって初めてのヨーロッパだ。


 隣でえへへと笑う美希を置いといて、俺は半泣きだった。慌ただしく、にぎやかなそこは飛行機の中。もう空港に着陸を待つだけの、完璧な状態。
嫌々ながらもトランクに荷物を詰め込み、必要なものを買い揃えているうちに一週間が過ぎ、気がつけば終業式。予約された飛行機のチケットの日付は、今日。何が楽しくてクリスマス前に日本を脱出せにゃならんのだ。
というか、何が楽しくてキリスト教徒が大半を占める本場のクリスマスに間に合わせにゃならんのだ。
……いや、分かってる。美希だ。美希がイギリスでクリスマスを過ごしてみたいと言ったからだ。仕事のある共働きのうちの両親がついてくるはずもなく、真穂ちゃんがついてるならとにっこり笑顔で空港まで送ってくれた美希の両親が当てにできるはずもなく。
いくら向こうでお姉さまと馬鹿が迎えに来てくれるって言ってもさ。さらっと普通に二人旅だ。
 飛行機に乗るのは初めてじゃない。海外に行くのも初めてじゃない。だから慌てて準備しなくてもパスポートがあったんだけどさ。ただ、上がってしまえば覚悟は決まるが上がるまで、滑走路を走って機体が浮き上がって、安定するまでと、それから着陸態勢に入って無事機体が止まるまでは、泣きそうなくらい怖い。キャラじゃない?ほっといてくれ。怖いものは怖いんだ。……今日は飛行機に乗ってるってことよりも、降りた先に待ってるものが怖いんだが。
 あの馬鹿のセリフじゃないが、俺はどうも弱点ばかりらしい。
指摘されて、並べ立てられると数えるのも嫌なくらい出るわ出るわ……知らないでいられたら、幸せだっただろうな。
……畜生!あの、ちょっと不幸で平和だった日々を返せっ!!
 って、それはそれであんまり……なんか虚しくなってきた。
隣の美希は、何の不安もなさそうににこにこ笑ってる。
これが、美希のいいところだけど……ちょっとこれもこれで……。
今浮かんでる空の下には、あのお姉さまと、あの馬鹿がいる。どうしようもなく俺がやられキャラだ。
俺はイギリスで過ごす冬休みに、猛烈な不安を抱いた。
どうか、手加減してくれますように。あの人たちが手加減知らずなのは忘却の彼方へ吹っ飛ばしておいて。

 目の前にいるのは、カットしてないボリュームたっぷりのムートンコートを羽織って、ストッキングに包まれた足を黒革のピンヒールブーツであしらった誰もが振り向く美女。
その隣には、ダッフルのロングコートの開けた部分から覗く黒のタートルネックセーターに、何にでも合うジーンズを纏う美男子。
 俺の隣には、人形みたいな可愛い顔と、真っ白なファーのついたコートとそこから覗く膝丈のシャンパンベージュのスカート、茶色のローファーを履いた美希がいる。
あぁ……ついにやってきてしまったご対面の瞬間。
「お……お久しぶりです、お姉さま」
ゆったりと微笑むのは、美希の従姉の曲直瀬理子お姉さま。イギリス育ちのお姉さまはなぜか日本の大学に入学して、美希の家に下宿して通っていた。俺はつい最近までお姉さまを美希の本当の姉だと思ってたんだが、初対面で……たしか幼稚園か、小学校に通い始めた頃だったと思うが……かまされた『教育的指導』によって、その呼称はいまだにお姉さまだ。
そして、俺を今のような男嫌いで女性にとことん甘い性格に仕立て上げたのは、お姉さまの徹底した『教育的指導』と『躾』の賜物。根底に残ったトラウマには、お姉さまに逆らうことイコール死に急ぐこと、と刻まれている。
「元気にしてた?そっちの方が気温的にはあったかいと思うんだけど、やっぱりあんたには使命があるし……美希、変わりない?」
「はい!みんな元気です。お久しぶりです、お姉ちゃん。そちらはいかがですか?」
「……あーっもう可愛いっ!!可愛らしすぎるわ美希ーっ!!どうしてそんなに可愛いのよ、世に蔓延るアイドルなんて目じゃないわ!おねーちゃん美希の顔が見られると思ったら我慢できなくて、思わずこいつの足踏んで猛スピードでエントランスに突入しちゃうところだったんだから!!」
今までのシリアスな表情はどこへやら、緩んだそれは美希の前でしか見せない甘い笑顔。
その隣で突っ立ってるのは、面差しのよく似た、けれど目は濃い緑で、髪はお姉さまの綺麗な黒髪とはまったく違うキャラメル色……そんな美形ぶった野郎が、お姉さまの弟の曲直瀬翔、だ。
去年の夏初めて会った割には、お姉さまからの『教育的指導』を受けた同志として、妙に親近感が沸く。
他にも色々言いたいエピソードやどこかに捨て去ったエピソードなんかも色々あるんだが……思い出したくないことばかりだ。
「ちなみにこれ、事実だ。理子に踏まれたのは右足で、激しく致命的な状況だった。俺様のナイスハンドル捌きによって何とか危機は免れたが」
そう無表情に呟いた翔の言葉に、穏やかだったお姉さまの眉がきりりとつり上がった。
「っやかましぃっ!!んなこと言う口はこの口かっ?!あぁ?!」
「ごめんなさい痛いです痛いです俺がすべて悪うございましたどうかご容赦を……美希が見てるし」
……口元を力いっぱいひねり上げたお姉さまに棒読みで謝るこのやり取りは、ちょっと初めて見たかもしれない。
「っはぁ!!ご、ごめんね美希、これはただの、姉弟のスキンシップって言うかなんて言うか……」
「うん、分かってます。翔くんとお姉ちゃん、いつも仲いいんだもん」
美希は激しく誤解してるような気はするが、翔が痛い思いをするのはなんら問題ない。
「ホントに美希はいい子ねぇ。私の妹に欲しいくらいだわ」
にこにこご機嫌の理子お姉さまは、美希の荷物を自分から持って、美希を誘導しながらさっさとエントランスに向かっている。
こっちは、取り残されてそれを呆然と見ているしかない。
「……あれはやっぱり、今まで会えなかったブランクか?たった1年にも満たないぞ?」
「仕方ねーじゃないか、理子はそういうキャラだから」
俺たちも行くぞ、って、翔が背を向けて歩き出した。
はぐれたら出ていけなくてお姉さまの半殺しメニューを食らうのは必至だったから、俺は今までで最強の男兼憎たらしい同志の目立つ後姿を追いかけた。

 どう近道をしたのかは分からないが、俺たちは先に出たお姉さまたちよりも先に車にたどり着いた。お姉さまにぶつくさ言われることもなく、手渡された美希の荷物を何の違和感も受けずトランクに上げたりしてたら、後部座席は美希とお姉さまが座っていた。
えーと。
「おいコラ真穂。さっさと乗りやがれ。それとも何か、俺様の運転じゃ怖くて乗れねぇとかほざくのか、あ?」
……違います、心の底から。
慌てて左側に回れば、
「真穂?何だ、俺の膝に乗りたいならさっさと言え?」
にやり笑いでどこに突っ込んでいいかも分からないような阿呆なセリフを吐いた奴に出会った。後で鉄拳食らわせることを心に誓い、俺はわざわざ後ろを回って、右側、助手席のドアを開けた。
 絶対、殺す。
前回叶わなかったことを、今度こそ。
美希の目的はクリスマスと観光だろうが、俺の真の目的が今決まった。
この大馬鹿者を負かす。絶対負かす。
例えどんな卑怯な手段をとることになっても、絶対、一回は『負けた』と言わせる!!
心の中で拳を握ったら、実際行動に移していたらしく、隣の馬鹿に「お前、運転中に手ぇ出したら心中だぞ、俺と」って突っ込まれて、思わず吹き出した。
誰が心中なんてしてやるもんか。
……つーか、お姉さまと美希がいるのに、そんなことできねぇっての。
久しぶりだってのに、相変わらずの物言いに、俺はちょっと懐かしくなって苦笑する。
 ……いや、いかん、なんかやられてる。
軽く頭を振って、助手席のシートに滑り込むと、きっちりベルトを締めて一息つく。
「事故なんてしたら後ろの二人を殺すんだぞ。お前にそんな命知らずな真似、出来るはずがねぇ」
「……それを言うなよ。俺だって自覚してるんだからよ」
翔が苦笑して、キーを回した。
低いエンジンの響きと、翔の手元のギアの動かし方に……それがミッション車だということが分かった。
畜生……器用な奴め。
腹の底で、何でもこなす器用さをうじうじと羨ましく思いながら、意外とスムーズに滑り出した車体のシートに背中を預けた。異国の空気は、不思議な香りや雰囲気に満ちて、自然と俺の心を疼かせる。
……それが、お姉さまとこの馬鹿のいるイギリスであっても。


 どうにか美希の追跡を逃れ、誰もがドレスアップして華やかに過ぎ去った、本場クリスマス。あとで延々そのときに出たご馳走の話なんかされたが、残念なことに偏食大王の俺の食べられるような料理はほぼゼロだった。実際あの日の俺は、片隅でポテトつついてただけだ。寂しいことに。
で、普通の人たちはかなり楽しいクリスマスの二日後に生まれたあの馬鹿の誕生日。
……あの日の壮絶な追いかけっこのせいで精も根も尽き果てていた俺は、美希に簡単に捕獲された。
現在俺はピンチだ。絶体絶命だ。
……誰かー。たーすけてー。
「うわぁ、真穂ちゃん、かぁわいー」
「うーん……真穂にしては上出来ねぇ……意外だわ……」
口から魂出て行きそうなこの状況に、俺は瀕死の重症だ。
 で。この状況とは。
……口に出すのもくそ腹立たしいんだが。
 信じられないことに、俺は今お姉さまの着せ替え人形と化している。
普通なら美希がこの役を仰せつかっているはずなんだが、今回俺がこの憂き目にあってんのは、まったく悪意も故意もない美希の一言のせいだ。
「真穂ちゃんが可愛いドレス着てるところ、私見たいなぁ。きっと翔くんもびっくりするよ!」
美希のお願い。
それを叶えるためだけに、お姉さまが美希のために用意しただろう可愛らしいレースやらフリルやらがふんだんに使われたパステルカラーのドレス。綺麗に磨かれたヒールのある革靴。衣装をいくつもとっかえひっかえ、俺の前に合わせて鏡に映す。俺の目ではすでにその様子を見ることが出来ない。頭で状況を認めるのが嫌だし、自分にこういう事態が起こっているってことが鳥肌もんだ。
……誰かー。たーすけてー。
裾のふわりと広がったミニのドレスを纏って、くるくる回る美希の姿が目に入る。ついでに目の前に膝丈のドレスを着せられて死にそうな顔をしたショートカットの女がいるがそれは気にしないことにする。その後ろにはマーメイドラインのシルクのロングドレス、サイドにきわどいスリットが入っていても清潔感の漂う美女が。……それが美女でありながら魔女であることを知っていても、事実を口に出すのは馬鹿がやることだ。
「ちょっと真穂?この私が褒めてあげてんのに、なんか言ったらどう?」
なんかって、何を言えばいいんでしょうかお姉さま。
「……うわぁすごいやぁおねえさまありがとー」
「そんな棒読みされたってちっとも嬉かないわよ馬鹿ねぇ」
……相変わらず容赦ない一言ですねお姉さま……涙もちょちょ切れるぜ畜生。
「早く翔くんに見せてあげたいよね!真穂ちゃん!」
「……ちっとも。これっぽっちもさっぱり全然ホントマジで勘弁して欲しい」
鏡に映る姿は考えないように、青ざめた顔を睨みつける。
どうにかして、この危機を逃げ切らないと、あの馬鹿に何を言われるか分からない。
……やばい。やばい。
どうにかして、この危機を逃げ切らないと……俺の一生はあいつに笑われて指差されて終わることになる。
それだけはっ……!それだけは勘弁してくれー。
もう、泣いちゃってイイデスカ。
いっそこのまま理性を手放したほうが幸せに生きていけるかもしれない、そこまで思った、その瞬間だった。
「おーい理子?いつまでそこで着せ替えして遊んでっ……」
ノックの音が聞こえたような聞こえなかったような、俺にはそれよりもドアの開く音と、その位置からでもおそらくはっきり見えるだろう俺の目の前の巨大な鏡と、鏡に映った今一番見たくない奴の間抜けな顔とが頭の中を一斉占拠した。
……死んだな……。
自分で見てもすぐさま目を背けたくなるようなこの状況に、あいつが耐えられるはずがない。そして俺はこれから先、その話題になるたびに後ろ指差されて生きていくことになるんだ……。
哀れな俺。幸せはいったいどこにあるんだろう。日本を飛び出しても見つからねぇなんて……もしかするともう一生見つからないかも。
深く息を吐き出して、その場にしゃがみこむ。とりあえず自分でもあんまり見たくないから、小さくなっておく。お姉さまには爪先で蹴り上げられるかもしれないけど、このまま調子が悪いって言って休ませてもらえばあいつの顔も見ずに済む。上手くいけば、いいんだが。
「あ、あの、お姉さま……」
ゆっくりと後ろを振り向いて顔を上げたのに。
「やだー、翔くん照れてるー!そうだよね、真穂ちゃん可愛いよね!!」
「あら、珍しいもの見ちゃった。どうしたのよ?あんたがそんなになるなんて。はっはーん?さては、そういうことだったのね?休み明けに日本から帰ってきたとき、やけに機嫌よかったのは、真穂を見つけたからだったのね?」
お姉さまも美希も聞いちゃいねぇ。
あいつは論外だしな……今死んでるんだから。
「あの……お姉さま?」
「真穂も見て御覧なさいよ、あの翔の馬鹿面!きっと、あんたがこんな格好してると思わなかったもんだから、不意打ちに撃沈してんのよあいつ。馬鹿ねぇ」
からからと明るく笑い声を上げるお姉さまに、ゆっくりと視線を翔へと移す。
珍しくカッターシャツなんか着て、ネクタイまで締めてやがる。クリスマスの二日後なんて、それの延長みたいなもんなんだろうか。まだみんなお祭り気分なんだろうか。
盗み見た表情は、今まで見たこともないような困ったようなどうしていいか分からないような、曖昧で微妙な表情。しかも、その頬は赤い。
「え……と。いったい、何が……?」
「なに真穂、あんた分かってないの?あんたも馬鹿って言うか、鈍いわね、大概」
お姉さまの切って捨てるような言葉に反論なんて出来るはずもないから、とりあえず黙ってその先を待つ。
「夏休みに翔がそっち行ったとき、帰りの飛行機に乗る前あんたに熱烈告白とかしなかった?気障なあいつのことだから、俺がこっちに来るまで彼氏なんか作るんじゃねーぞとか何とか」
図星だったので思わず頭を抱えて正面に向き直った。
顔が、上げられない。きっと上げれば、嬉々としたお姉さまの表情が視界に入ってしまう。それって今は精神的にとても痛い。
もしそうでなかったとしても。
「ふーん?やっぱりそうなんだー。いいのよ、真穂。翔とよろしくやって頂戴。その感情が美希にいかなかっただけで万々歳よ。美希を本当の妹にしたいのは山々だけど、翔のお嫁さんだなんて、そんな真似許せないわ」
こうやってさらっと言われてしまって結局痛い思いをするんだけどさ。
……っつーかさらっとゴーサインなんか出さないでください、お姉さま。
俺にはその気はないです、そんな自分から不幸拾いに行くような真似、誰が……
「理子からオッケー出たんなら、もう容赦はいらねぇな真穂。悪いが俺はイギリス育ちだ。日本人の奥ゆかしさとかそういうのは気にしないからお前も俺の手が早くても文句言うな。大体滅多にしないような格好今日に限ってしてやがるお前が悪い」
あぁああああ。俺の幸せ返せ。
「誰が奥ゆかしさ気にしないからだ?!俺のどこが奥ゆかしくないんだっ!!っつーか手が早くてもってなんだ!!文句ありまくりだど畜生!!」
「うるさい奴だな、ちょっと大人しくしてろ。すぐ済むって」
にやっと唇の端を吊り上げた翔に思わず後ずさる。
「なっ、何がすぐ済むんだ?!大体、滅多にしないような格好してるんじゃなくてお姉さまにさせられてるんだ。その辺の区別ぐらい、お前にはつけられねぇのかよっ?!」
「聞こえない聞こえない。俺の誕生日にわざわざありがとうよ理子」
「無茶苦茶聞こえてやがるじゃねぇかテメーっ!!」
指おったてて突きつけてやったが、むしろその瞬間に傍らから発せられた強烈な殺気が勢いよく俺を貫いた。ゆっくりと首を回す。
「……真穂?この私の好意を、あんたはさせられてる、って?強制だと、そう言いたいわけ?」
「へ?……あ、いや、それはその、そうじゃなくて、その、だから……」
違いますお姉さま。事実だけど言葉にするつもりはなかったんです。
……どうして俺、ここに来ちゃったんだろう。
神様のバッキャロー。
「そうか真穂、自分からそんな滅多にやらないカッコするほど俺のことを好きなんだな。よしよし、その気持ちはありがたく戴くぞ」
相変わらず嬉そーに笑ってやがる翔に、なんとなーく、過去の嫌な経験が脳裏をよぎる。
「なぁっ?!ちょ、ちょっと待ちやがれー!!だっ、だ、誰が誰をすっ……すっ!!」
「言えないことはわざわざ口に出さなくてもいいんだぞ、恥ずかしいんだよな、俺に面と向かって好きなんて言うには」
俺は分かってるよ、って顔してそういうことをほざくなっ!!お前は分かってねぇだろうが!!
「だっ、誰がお前をすっ……いやっ、お前絶対間違ってる!!いい加減にしろっ」
「あぁもううるさい。ちょっとお前こっち来い」
さっきまでの阿呆面はどこへやら、いきなりつかつか寄って来た翔は有無を言わせぬ強さで俺の手を掴む。
「何しやがっ……」
酷く真面目ぶった表情に、俺は半泣きになった。
そのまま引き摺られていく俺の背中に、お姉さまの容赦ない声が……
「ドレス汚さないでねー」
って俺の心配はなしなんですか!!
あぁぁああぁぁ。
混乱に任せてわけの分からない悲鳴をこぼしながら、滲んだ涙を拭うことも出来ないまま俺はその部屋から引っ張り出された。


 仄明るい廊下をずんずん進む翔に、俺はどうすればいいのか分からないでいた。
まさかクリスマスパーティーやってた部屋に俺を放り込んで笑い者にするつもりなのかとも思ったけど、どうもざわめきからは遠ざかり始めている。
わけが分からない。
色々頭を捻って考えてみたが、さっぱりだ。
やっぱり、こいつの考えることはわからねぇ。
「入るぞ」
って言葉にも、反応が遅れた。
突然視界が真っ暗になる。
「っぎゃあぁぁぁぁっ!!」
「うるさいやつだな、今ライトつけるからちょっと待て。つかまってろ」
掴まれた手を辿って、腕に縋りつく。原因はもう忘れたが、暗闇も俺の弱点のひとつだ。
「ったく……いつもこんななら女なのになぁ?」
「うるせぇっ!!はっ、早く電気つけろっ!!」
必死に絞り出した声に、翔の忍び笑いが重なる。
「ここ、俺の部屋。お前、ホントはすごく危険な状況なの分かってるか?」
「俺は今それどころじゃなっ……え、と。あの、翔さん?それはいったい……」
見えないのを承知で、ゆっくりと顔を上げてみる。
「まぁ戴いてしまおうと思えばできるわけだな、俺には」
……見えない暗闇の先に、あの野郎がにやり笑いをかましているのが見えた気がした。
「いや……ちょっと、それは俺としては非常に困るんだが」
「俺は別に困らねぇよ?要は理子のドレスを脱がしちまえば後はご自由にって言ってたしな」
……あのー、翔さん?本気、なんですかあなた。
今一瞬脳裏で本気、と書いてマジと読んだが、そんなしょーもないこと考えてる場合じゃないってことを改めて思い直して頭を振る。
「だ、だから、ちょ、ちょっと待て翔」
「自分から罠にかかっといてそれはねぇだろ」
てめぇが仕掛けたくせにー!!
そう言っても暗闇の中では縋った腕を離すわけにも行かない。
何となく、二つに一つの選択を迫られているような気がしてきた。
……だ、誰か、ホントにこの状態から助けて。
神様さっきはごめんなさい、どうか俺に救いの手をーっ!!
ぱちん、って音がして、閉じた瞼に明るい光を感じた。
俺はゆっくりと目を開ける。
「バーカ。俺様は餌にがっつくほどガキじゃねぇの。こういうのはな、上手いこと仕留めるのが楽しいんだぞ?」
「へ?」
「いいから、ちょっと離せ。着替え出してやる。多分着れるだろ」
緩めた腕からするっと抜けて行った翔が、クローゼットの中をごそごそ探り始めた。
俺は、翔の言葉をゆっくり反芻しながらそれを眺める。
着替え?
引っ張り出されたのは生成りのワイシャツと、濃い茶色のネクタイと、同じ色のスラックス。
「着替えたら出て来い。飯だ飯」
そう言った翔が、俺に服を押し付けて扉に向かって歩き出す。
翔の背中を呆然と見詰めていた俺は、その瞬間はっとして息を吸い込む。
「ちょっ、翔!!待ってくれ!!」
「何だよ?」
背中を向けたままで振り向こうともしない翔に向かって歩き出す。
低いとは言え、ヒールのある靴は歩きにくいことこの上ない。足を取られながら絨毯の上を歩ききった。
「翔」
「だから、何だよ?」
やや苛立ったような声で応じる翔に、俺は躊躇いながら呟いた。
「……背中のジッパー開けてくれ。俺の体の固さではこれを上げ下げ出来ない」
「何でお前はそう際立って馬鹿なんだ!!そんな服着てんじゃねぇよ!!っつーかそんなこと男になんか頼むな阿呆!!」
そんなことを言われたって、困るのはこっちだ。いきなりつれてこられたのはこっちなんだから。
「だったら俺をお姉さまんとこまで連れて行きやがれっ!!この際着せ替え人形でも何でもいいっ、あ、でもそれだと着替えられそうもないな……お前じゃなくても代わりの人間連れてきたっていいぞ!!けどな、俺の方向音痴っぷりを知っててこんなところまで連れてきたお前がちゃんと最後まで責任とれよっ!!」
負けじと怒鳴り返した俺に、翔が振り向いた。その表情は、反省の色も何もない爽やかに見せかけた似非にやり笑顔。
「ほっほーう?それじゃあお前、自分ではこの部屋から帰れないんだよな?そうかー、それじゃ俺が責任持って、美味しーく戴いちゃいましょうか。せっかく真穂がこんな格好してるんだから。お前も嬉しいだろう、ムードは満点だ。イギリス、しかもこんないい部屋でいい男と」
「……いっ、いい男ってのはもしかして、お前のことか?!まさか、そんな嘘があるわけない!!馬鹿な……誰がそんな嘘っぱちを……!!」
「お前さ、普通そこに着目するか?」
馬鹿が何か呟いた気がしたが、そこに噛み付くと俺にとっては都合が悪くなりそうだから触れないことにした。
「っつーか、いい男ってのはそんな野蛮な真似を……?!そんなはずはないっ」
「お前なー……ま、いいか。今回は俺の負けってことにしといてやるよ。時間はまだまだたっぷりあるからな」
「いい男……俺もいい男とお近づきになってみれば少しは男嫌いも治るかも……ん?『俺の負け』?」
犬に例えると、きっと耳が精一杯立ってると思う。しかも姿勢は行儀よくお座りした感じだ。何かくれるような気がして待ってる。そんな気分。
「何だよ、俺が珍しく負けを認めてやってるんだぞ、喜べ。背中のジッパー下ろしたらすぐ出て行くからな」
……俺、今すごく感動してる。
自分ではこれといって何もしてないし、実際こんなところでこいつがあっさり敗北宣言なんてするとは思っても見なかった。こいつはいつでもどうやってでも俺に負けたなんてこと言わないって知ってたから。やっぱり理由はよくわかんねぇけど、でも、こいつは今確かに『負けた』って言ったよな!
 俺は、この旅行の目的を果たした。
翔を負かした。例えそれが技と技のぶつかり合いの末でなくとも、わけが分からないままの勝利だったとしても。
俺ってば、翔に出会った去年の夏から今までで、一番幸せだ。
「ほら、下ろしたぞ。じゃあ、さっさと着替えやがれ」
じゃっ、とジッパーの下りる音がして、翔が背中を向けた音が聞こえた。
ノブを回した音がして、はっとする。
「ま……待ってくれ翔!!」
「あぁっもう今度はなんだよっ!!脱がせとか言いやがったら今度こそ俺は我慢のげんかっ」
「言うか!!」
なにやら阿呆なことをほざく翔の言葉を遮って、俺は。
「靴持ってきてくれ!!こんなヒールのある靴履いてたら足が死ぬ!!底の厚い革靴、もしくは俺の履いてきたブーツでいいぞ!ブーツはお姉さまのいた部屋にあるっ」
言いたいことを言った俺は、着替えようとドレスに手をかけた。
が、翔が出て行く気配がない。
「おい?もう行っていいぞ、頼んだからな」
「……お前、今度こういうことになったらぎゃーぎゃー騒いでも無理やり犯るからな」
そう、捨て台詞を吐いてゆっくりドアの隙間に消えて行った翔の背中に目をやる。
俺は、首を傾げた。なんか、怒ってたような気もするけど。
「……どういう意味だろ」
まぁ、いいか。
なんにしても、俺は翔に『負けた』と言わせたわけだし。
満足感にこぼれる含み笑いを隠しもせず、俺は衣装を脱いだ。



 そして、今年最後の日。
「さぁ真穂?迎えに来てやったぞー。除夜の鐘聞いてその足で初詣だぞー?」
「嫌だーっ!!誰が行くかっ!俺はうどん食いながら国営放送を見てそのまま寝るんだっ!!」
「……せめて蕎麦食えよ……大晦日だぞ」
「嫌いなもんは食えない。年越しうどんは美味いぞ」
「真穂ちゃーん?行こうよー。私、真穂ちゃんにもあけましておめでとうって早く言いたいんだよ」
にっこり笑ってくれてるだろう美希の言葉に、俺は行かざるを得なくなった。
……美希の隣に、やっぱりにやり笑いで立ってるだろう翔の姿が目に浮かぶ。

 恐ろしいことにあの馬鹿、俺たちが帰ってきた飛行機に一緒に乗ってやがった。空港に着いたところで迎えに来てくれた美希のご両親に『よろしくお願いします』って言ってるのを目撃しちまって、あれは即死だったな。
で。今、こういう憂き目にあってるわけだ。
「まーほー、急げー」
嬉々として俺の名を呼ぶ声が響き渡る。
……畜生!!
俺は泣く泣くテレビの電源を切って、こたつの電源も切って、傍らのコートを引っつかんだ。
俺の一年は、こう始まる。
あぁ……俺って幸せになれるんだろうか。
初詣の願い事は、この先もずっと同じものになりそうだ。

 神様、どうか俺を幸せにしてください。

gift *
index *