ラブ・ウォーズ! 7月.夏祭りの夜
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 彼は、酷く上機嫌だった。
人込みの酷さも、蒸し暑い空気も、もろともしない……むしろそれを跳ね飛ばすほどの勢いで、満面の笑みを浮かべていた。
レイエルはその様子を見上げながら、ただ首を捻るばかり。
他に出来ることは何もない。
ウミエルに、身体ごと包まれるように抱えられ、その程度にしか身動きが取れないのだ。
「あ、あの、ウミエルさん……?」
「暑いか?悪いな、でも、今はレイエルのこと、離したくないんだ。俺以外の誰かに、お前が触られるのは、嫌だから」
ゆったりと微笑みを浮かべられ、ぴったりと密着させた背中へと、重みが加わる。不愉快でない程度の、触れていることを強く認識させるための重さだ。それが、レイエルの羞恥心を煽る。
「……恥ずかしい、です」
穴があったら入りたい、という慣用句が、まざまざと思い出せた。
今こそその瞬間だろうと、レイエルはひそかに思う。
「すぐ慣れるよ。俺は、お前の傍にいたいし、こうして触れていたいから」
その言葉はレイエルをますます窮地に追い込むだけで、決して掬い上げてくれない。
何しろ、相手は彼だ。いまさら足掻いても仕方のないことかもしれない。
レイエルでは、敵うはずもないのだから。

 ケレスやディオネ相手に相談したのは、先月の末も近い頃だった。それから多少吹っ切れ、何度か彼の誘いを受けたが、やはり彼が触れてくるのはまだ慣れなくて、手を繋ぐ程度に留めている。それでも彼は時折、額に口づけをくれたが、身体を固くして怯えてしまったせいか、それ以上を求めようとはしなかった。
ただ優しく、触れるだけの口づけは心地よくて、早く気持ちを明かしたいという想いと、彼の気持ちを聞くのが怖いという想いが相反していなければ、すぐにでも飛び込んで行ってしまいたいほどだ。
 今日は、近所の河原で花火大会があるらしい。この時期になると、毎日のように花火の上がる音が響いて、どこで上がっているかなんて、レイエルには区別がつかない。
数日前にウミエルに誘われて、ようやくその日が地元の花火大会だと知った。目的地が近場だからか、徒歩だというのにわざわざ寮まで迎えに来てくれたウミエルに、レイエルは嬉しくなって腕を絡ませた。
 相変わらず、彼はTシャツにカーゴパンツの全体的にラフにまとめられた服装だ。レイエルは、袖や襟ぐりにフリルがあしらわれたノースリーブのワンピース。買いに行ったのは自分だが、見立ててくれたのはディオネで、やや細身のシルエットを作る美しいラインのものだ。
ディオネであれば、伸びやかな肢体によく似合いそうだと思うが、やや身長の足りない自分には、さほど似合うとは思えない。鏡の前でしばらく悩んだが、他に彼のシンプルな格好に釣り合いそうなものが思い当たらず、しぶしぶそのまま出かけた。
自分ではそう思うのに、彼はいつも、可愛い、と褒めてくれる。
「……このまま、花火なんてほっといて俺の家に来ないか?ついでにそのまま泊まっていこう。俺以外の男の目に触れるなんて嫌だ。膝ちょっと上の裾がますます気になる」
尖った視線で言い切られるようなことではない。
レイエルは困惑して首を傾げて、ウミエルから額への口づけを受けた。

 腹部へ回された腕が、弱い力で行動を拘束する。
それが彼の愛情の強さなのかと、レイエルは朧気に思い、息を吐く。
周囲は喧騒にまみれて、人に押しつぶされそうだ。なのに、レイエルはさほどの苦しさや他人の不愉快な温度を感じずに済む。すべてウミエルのおかげなのだと分かるため、彼の腕を振り払うことも出来ない。
みんなは、ああ言うけれど。
本当のところがどうなのかは、レイエルには分からない。彼の本心も、想いの強さも、いつまで続くのかも。
それを言葉にして聞き出すことは、怖い。
それが怖くない人間なんて、なかなかいないだろう。
「……ウミエルさん」
「ん?どうかしたか?」
聞こえないように呟いたつもりだったのに、彼はきっちり返事を返してきた。
レイエルはどうしようかと少し悩む。
「えっと……あの。少し、喉が渇いたなって」
「あぁ……何か買ってくるか。何がいい?お前は……確か紅茶が好きだったな」
「え、あの、一緒に……」
「行きたいのは山々だが、そうするとこの場所が埋もれるだろ。ちょっと待っててくれるか?すぐ帰ってくる」
するりと、腹部に絡みついていた腕が離れていく。それと同時に、背中に感じていた彼の温度や重みも消えた。
「何かあったら、すぐに携帯に連絡入れろ。それが間に合わないなら俺を呼べ。お前の声なら……どこからでも聞き取れるから」
優しく喉をくすぐられて、レイエルは猫のように目を細めた。
「……ホントですか?」
「あぁ。他の誰でもなく、お前の声だから」
ちょっと待ってろよ、と頭を撫でられ、レイエルは頷いた。
「早く……帰ってきてくださいね」
「何だ、寂しいのか?」
「そうかも、しれません」
背中に流した髪をすっと撫で下ろされて、その感触にうっとりする。
大きな彼の手は、いろいろな意味で心地いい。
「ホントに……どうしてそう可愛いことを言ってくれるんだ。連れて帰るぞ」
額に口づけられて、レイエルは顔を上げた。そこに浮かぶ表情は、悔しそうな寂しそうな……言葉にするには難しい。
「花火を、見に来たのに……もう帰るんですか?」
「馬鹿だな、気づいてなかったのか?俺がお前を誘ったのは、花火が見たいから、じゃなくて……お前と一緒にいる口実になるから、なんだぞ?」
先ほどまでの曖昧な表情から打って変わって、悪戯っぽい、楽しげな微笑み。
レイエルは言葉の意味に顔が赤くなるのを自覚し、それを見られるのが恥ずかしくて、俯いた。
彼の押し殺した笑い声が頭上に響いて、レイエルはますますどうすればいいのか分からなくなる。
「ごめん、ホントのことだけど、はっきり言い過ぎたな……まぁ、お前のそういうところも俺は好きだけど。それじゃ、これ以上のんびりしてるとますます人間が増えてきそうだから、行ってくる。すぐ帰ってくるから、大人しく待ってろよ?」
「はい。よろしくお願いします」
深々と頭を下げてから、顔を上げる。彼はやはり、楽しそうに笑って頷くと、そのまま踵を返して人込みの中に消えていった。
 本当に一人きりで取り残されて、レイエルは軽く溜め息をついた。
彼がすぐ帰ってくると言えば、本当にすぐ帰ってくるのだろうが、人込みがそう得意ではないレイエルにとって、彼のいない人込みは苦痛でしかない。
早く帰ってきて欲しいと、彼の存在を必死に探してしまう。妙に落ち着かなくなった。周囲のざわめきに、時間間隔が薄れていく。きっと彼が行ってしまってからさほどの時間は過ぎていないのだろうが、それでも離れている距離は変えられない。
 これでは、彼が自分に飽きてしまったとしても、離れられない。
いけない、と自分で分かっていても、どうにもならない。
もっと強くなりたい、そう思って顔を上げた瞬間、腕を掴まれた。
彼かと思い、嬉しくなって振り返る。
「お帰りなさっ……きゃ!」
ぐいと乱暴に引き摺られて、レイエルはびっくりして身を竦ませた。直感的に悟る。
彼では、ない。
過剰なまでに大切にしてくれる彼は、こんなことは、絶対にしない。
怖くて顔を伏せたレイエルは、腕を振り払おうと必死にもがいたが、更に強くつかまれて逃れることが出来ない。女性とは思えない手の平の大きさが、その持ち主を異性だと伝えてくる。
何が起こるのか、どうすればいいのか、レイエルには分からなかった。
叫びたいのに、声が出ない。
「やだ、離して……むぐっ」
懸命に搾り出した言葉も、口をふさがれてすぐに詰まってしまう。
誰も助けてくれないのはどうしてなのかと周りを見渡して、妙なことに気づいた。
周囲を、囲まれている。
ぐるりと包囲されるような体勢で、中の様子に気づいていないのだ。
いつから仕組まれたのか、レイエルにはさっぱり分からなかったが、本能の部分で、自分の身に迫る危険を感じ取っている。このままではまずい。
それでも、身動き取れないレイエルは、取れないなりに懸命にもがく。
どんどんと人込みから遠ざかり、空気が冷たくなっているのを感じ取った。
必死の抵抗を気に留めないまま自分を引き摺るのが誰なのかも、レイエルは知らない。
「……っや、ウミエルさんっ……!!」
半泣きのまま必死に絞り出した声で、彼を呼ぶ。
と、背後で何かがぶつかり合う、がつん、という音が聞こえた。
「……俺のレイエルに手を出すんだ、もちろん、覚悟は出来てるよな?」
片手に、レイエルが好んで飲むメーカーの缶入りミルクティーが。
もう片方には、変なへこみ方をした缶コーヒーが握られている。
さらさらと流れる波打った金の髪は、レイエルの目尻にたまっていた涙で滲んで見えた。
「ウミエルさん……」
「もっと早く呼べよ。いくら俺でも、空飛んでいくのは無理だから」
そう言う彼の表情は、妙に硬い。感情を押し殺すような、冷たい表情。
「さぁて……ちょっと事情を聞かせてもらおうか、スフィエル」
ぱきぱきっ、と関節の鳴る音がした。
それが、誰のものかレイエルには分からなかったが、もう怖くない。
目の前に彼の姿が見える、それだけで十分安心できた。
大丈夫だと、そう思えることが、嬉しかった。




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